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歌詞読んでみた lyric.7 / エッセイ「優しく睫毛に憩う」

このテキストは、その月に読んだ歌詞の中から選出した歌詞のコラム歌詞にまつわるエッセイ「歌詞読んでみた」と題し、まとめた連載である。

8月はけっきょく、何回か遊びに出かけて終わってしまった。友人たちと銀座で開催されている『行方不明展』を観に行ったり、先輩たちと町田で食べ歩きをしたりなどしただけだで、夏らしいことは何もしなかった。

毎日の歌詞の書き起こしやジム通いやドラムレッスンは継続できているので良しとしていたが、インプットに紐づく体験が希薄になるとリアリティが薄れ、いまいち読解に腰が入らないのはこのテキストにとっては痛手だった

だったのだけど、いまの状態で読んでいると、これまでさほどのめり込んでこなかった情景描写に目が行くようになってきた。ケガの功名だった。変わり映えしない日常風景に救いを求めたのかもしれない

今回はそんな影響が表れてるとおもいます。そして来月はこれまで行きたかった所に気軽に行こうと心に決めました。手始めに、トランポリンしに行こうとおもいます

それでは8月度の「歌詞読んでみた」、始めます。



松田聖子『渚のバルコニー』
作詞:松本隆

渚のバルコニーで待ってて
ラベンダーの
夜明けの海が見たい
そして秘密…

松田聖子『渚のバルコニー』より

わたしが好きな歌詞にはアイドルソングが多い。アイドルソングに限らず歌詞に含まれる要素のなかで情景のうつくしさが特段好きなのだが、アイドルソングに限ればこれをいかに言葉として表現できるかが勝負所であり、歌詞の良し悪しが楽曲の完成度を決定するといってもいい重要な要素だろうと思うところがある。

アイドルソングはいわばドールハウスである。そこに彼女らを住まわせ、そこでのあるはずのない思い出をアイドルが歌唱することでそれは回想となる

想いを寄せる人と海辺でデートする心模様を歌うこの歌詞は可憐で清楚でいじらしい。夜明けの海の色味を”ラベンダー”と描写する色彩感覚が素晴らしいシックで夢かわいくて香り高い品のある色。ラベンダーという花の固有名詞を使用することで、香りを聞く、つまり回想という意味合いを一層強調している。想像でしかないが、ラベンダーはわたしは今日のために振ったコロンの香りなのかもしれない。

そんなラベンダーの海で秘密をかかえて待ってるいじらしさ。あまりにも可愛い。「I love you so love you」の甘いメロディが一層この曲の心地よさを引き立てている。

名曲は名曲たる理由があるから、いつまでも名曲なんだと感じた1曲でした。


JUDY AND MARY『ラッキープール』
作詞:Tack and Yukky

夏に冬のうたで 涼しい夕暮れへ
祈るように季節かんじて 今 瞳ひらくの

JUDY AND MARY『ラッキープール』より

作詞のTack and YukkyはYUKIとTAKUYA共作の名義。世界観や精神性はYUKIで、メロディに落とし込むのがTAKUYAという分業なのかな。

不穏なイントロから徐々に明るく展開していくこの曲は、夢から現実に醒めてゆく感覚を覚える。その特徴はサビに表現されていて、この曲は終始覚醒と睡眠の間にいる。二度寝を企んでいる時のあの眠たさが知る中でもっとも近い。

ラテンのリズムで歌われる上記の引用部はうだるような夏の気候を漂わせながらもひときわ微睡んだ印象を醸し出ていることから考えるに、この曲は蜃気楼のゆらめきを夢見心地とかさねたように世界を見ている。タイトルにもある”プール”は庭の暑さと水の冷たさが重なりあう場所で、そこはまるで夢と現実が交じり合うのと同じ温度。わかりやすくまとめると、夢であって現実である、そんな感じ。

不穏なイントロがピタと止み、「知らない間に眠ってた 午後の風の中で」と眠りから覚める。まわりには「日に焼けた鼻 汗ばむ胸 ぬるくなった缶ビール」。おそらく恋人とのケンカの傷を癒すために飲んでいたのだろう。この8小節の時点ですでに良い

古びた時計を捨てる勇気を だんだんわかってく
あなたの笑顔を見ていたら 胸がイタクなった

JUDY AND MARY『ラッキープール』より

2番のこの箇所を軸として歌詞全体を読むに、恋人とこっぴどくケンカをし、しかもケンカの最中自身の尊厳や気持ちを大きく傷つけられたのだろう。しかしそこで、別れるという選択はせずに優しい人になろうと決意をする。なぜなら小さなプールを大きな海にしちゃいたいくらい私とあなたで良い関係でありたいからで、なぜならひどく傷つけられてもあなたが好きだからだ

夢游の中で聞こえてきた正体不明の「泣いてもいいんだよ」「こわくなんかないよ」「見失わないで」は自分自身。あなたが好きな気持ち、傷つけたあなたを許しがたい気持ち、それらを抱えたまま関係をつづけていけるのか不安な気持ち、矛盾を引き起こしているアンニュイなキモチの私を大切に労わる深層心理の私の声。

やんちゃで繊細で、可愛い歌詞でした。


放課後クライマックスガールズ『ビーチブレイバー』
作詞:古屋真

髪 かきあげ 西日をライトに
物憂げそうな 写真をペアで撮る
(さあ さあ 本気モード 超 超 本気モード)
(さあ さあ 本気モード 超 超 本気モード)

イケてるショット 競ってたのに
ラムネの瓶で ビーチフラッグしてる

放課後クライマックスガールズ『ビーチブレイバー』より

以前『Dye the sky.』を紹介した「アイドルマスターシャイニーカラーズ」内のユニット、放課後クライマックスガールズの楽曲を紹介したいハマりにハマって、8月の大半は放クラ(同ユニット略称)を聞いて過ごした

とはいうものの、ストーリーが展開されてるであろうアプリゲームは未プレイなのでこのユニットについて知る情報は公式サイトを読んで得た、キャッチコピーが「女の子はいつだって放課後がクライマックス!」で、性格や好などがバラバラな12歳~20歳の5人組であるという事くらい。しかしそれでも、楽曲の歌詞を通して見えてくるこのユニットの”いま楽しい!”にわたしは虜になってしまったのだ

はじめにPプロデューサーさん(アイマスシリーズファンの総称)のみなさんに予め申し上げますが、これからいちラブライバーがにわか知識で放課後クライマックスガールズならびにこの楽曲を考察いたします。やさしいまなざしで見守っていただけると幸いです。

さて、この『ビーチブレイバー』は仲良し5人組で海に遊んでいる瞬間をテーマに描いているのだが、ここに「日焼け」という言葉が使用されてないことこそが放課後クライマックスガールズの真髄だとみた

夏や海をテーマに歌詞を書けば、ほとんどの場合「日焼け」を連想するだろう。しかし、放課後クライマックスガールズが見つめているのは常に”いま”や”あした”である

その点において「日焼け」という”きのう”の事、単語に含まれる懐古のニュアンスは”いま”を生ききる彼女たちにふさわしくないのだ

ここには『おジャ魔女カーニバル!!』が無性に泣けてくる感性がない。察するにこの歌詞の制作において「日焼け」という単語は意図して使用を避けたはずだ。「日焼け」はつまり大人の感性であり、放クラらしくないから

細部にこだわる繊細で丁寧な言葉選びによってこの歌詞に”放課後クライマックスガールズ”という魂が宿り、品格が保たれているので、にわか知識でも彼女たちの魅力が存分に感じられるのだろう。

世界の中心は”いま”であると言わんばかりに5人で海遊びを謳歌するこの歌詞に放課後クライマックスガールズはとことん”いま”を楽しむユニットだと教えられた。彼女たちが見据えているのは過去でも未来でもなくいつでもどこでも”いま”。そしてそんな”いま”という場所に性格や年齢や価値観がバラバラな5人が集う奇跡を聞いていると自然と涙がこみあげてくる。

いつかライブに行ってみたい。

止まらない BLUE BRAVERS
真っ赤な夕日にみんなで歌い
SHINY SKY
嬉しくっても泣けるよ 何で?

放課後クライマックスガールズ『ビーチブレイバー』より

椎名林檎『ありあまる富』
作詞:椎名林檎

もしも彼らが君の何かを盗んだとして
それはくだらないものだよ
返して貰うまでもない筈
何故なら価値は生命に従って付いてる

椎名林檎『ありあまる富』より

誰かが盗めるものなんて所詮盗める程度だというこのワンフレーズ。懐が深くて気品高い。そして日々文章技術を見て盗んでいるわたしにとってハッとするフレーズであった。

創作において”盗む”という言葉を使う事は疎まれがちな紙一重の表現であり、「オマージュ」「インスパイア」「パロディ」「パクリ」と地雷原のように広がっている地平を慎重に文章をしたためている。

こうして創作に向き合っているとわたし程度なんてと思ってしまいがちだが、それは他人との比較検証の結果であり、その証拠は比較によって見出された他人との共通点である。共通している事のありきたりさはみるみるうちにわたしを凡庸へと引きこんでくるのだが、この歌詞によればその憂いは全くもってわたしの価値ではないと否定している。

豊かな富を所有する君は生命に価値があるから、たとえ枝葉を掠め取られようと君の価値は揺るがず、むしろくれてやるたびに富が可視化されてゆくと云う。

一方で、盗むほうのわたしとしては見て盗む行為というのは砂を掴まされているのと同義である。

なればわたしが目を向けるべきは他人の砂ではなく、わたしの生命に目を向けるべきなのではないか。どこに向かい、何を求め、誰で在りたいか、どちらを取るか、そしてわたしはどんな人間なのか。

この歌詞をきっかけに自分自身を見つける機会を得られた気がした。


エッセイ「優しく睫毛に憩う」

薄々感じていたが、わたしは演歌の歌詞も好きらしい。とうとう演歌が沁みる年齢に差し掛かってきたかと嘆きつつも、うつくしい日本語の心象描写とと歌唱による説得力とか、ミニマムなエンタメとしての完成度に感動せずにいられなかった

手はじめにと、北島三郎、八代亜紀、坂本冬美などの演歌の大御所を聞き始めてゆき、そして美空ひばりにたどり着いた

あらためて聞く美空ひばりに、近藤真彦じゃないが「歌うまっ」思ってしまったし、この『愛燦々』の言葉のうつくしさには思わずため息がでてしまった。

雨 潸々と この身に落ちて
わずかばかりの運の悪さを
恨んだりして
人は哀しい 哀しいものですね

それでも過去たちは 優しく睫毛に憩う
人生って 不思議なものですね

美空ひばり『愛燦々』より

日本歌謡史上もっとも上手いとされ、わたしが大好きな歌手・水樹奈々の憧れの歌手である。そしてわたしの亡くなった祖父が大好きだった歌手。

物心ついたころには祖父は糖尿病の影響で目がみえなかった。わたしが祖父母の家に遊びに行くと、部屋で美空ひばりのVHSをみてるところにたびたび出くわしたのだが、それが映像を見ていたのか音を聞いていたのかは定かでない。

わたしは高校の受験勉強をしてた頃には、まったくといっていいほど目が見えてなかったので、祖父の耳にはいつもイヤホンがかかっていた四六時中ラジオを聞いているのだ。わたしにはわからなかったが祖母曰く巨人が負けると機嫌が悪かったらしい。美空ひばりに巨人軍、みごとに”昭和”である。

毎日朝から晩までラジオを聞いているので、操作不良か危機の故障かは不明だったがよく「ラジオの調子がわるい」と言われた。わたしはそのたびに横浜のヨドバシカメラにポータブルラジオを何台も何回も買いに行ってあげた。中学生の時は横浜に出掛けついでに言われるがまま買いに行っていたのだが、今考えるとあれは孝行だったんじゃないかと自分を褒めてあげたい

ならんでるラジオはどれも持ち運びやすいよう機体もボタンも小さくて、目が見えない人でも使いやすいように周波数のセットが出来て電源を入れるだけで簡単に使えるものを、といろいろ店員さんに相談したのをよく覚えてる。

この曲を聞きながら、祖父はひばりをどんな風に聞いてたのだろうと尋ねたくなった時に気づいてしまったのだが、ラジオだけを聞いていた十数年間、祖父は美空ひばりを好きな時に聞けてなかったはずだ。わたしがもうすこし気を利かせられていたら、iPodでもなんでも美空ひばりが聞けたかもしれない。

そんなことを思いながら、孫は美空ひばりの詞をノートに書きつけているのでした。

わたしの力が及ばないばかりに読者の皆々様にお力添えをいただきたいのですが、この話は人情話にするつもりはないのでここで一旦終了とさせていただきます。歌詞を引用するなら「わずかばかりの運の悪さを恨んだりして」です。この話は「わたしの気が利かなかった話」ということで納めていただければ幸いです。


以上、8月度の「歌詞読んでみた」になります。本稿の感想やおすすめの歌詞などは、本稿コメント欄、XのリプライやDMにお願いいたします。大変励みになります。それではまた来月に。

おしまい。

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