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時代の考察

※ 文中では敬称を省略させていただいております。予めご了承ください

最近「時代は変わったんだね」という会話をすることが増えてきた。それは私がおじさんになったからなのかも知れないが、確かに昔はよしとされていたものが今はアウトとされたりするケースは少なからずあるような気がしている。

昔の話

私は1980年生まれの松坂世代で、松坂大輔のほかに広末涼子やキングコング西野亮廣が同じ歳である。今や都市伝説になりかけているバブル景気は私が小学校高学年の頃で、自営業をしていた我が家でもたしかに景気の良さを感じ取れた記憶はある。私がキーボード操作に慣れるきっかけとなったワープロ専用機のキャノワードα50を小学校4年生の誕生日に買ってくれたのもバブル経済真っ只中の1990年頃だったと記憶している。その頃には少子化の影が見え隠れしつつもまだ少子化にはいたっておらず、一言で言うと大雑把な時代だったように思う。

クラスのみんなが同じテレビ番組を観て、月9のドラマの主題歌がヒット曲となり、歌番組を観れば音楽のトレンドはほとんど把握できた。時事ネタの論調も夜のニュースキャスターの考えに引きずられて、翌日会話をしているとどのチャンネルを観たのか推測できたほどだ。給食も好き嫌いせず残さず食べろと教育され、みんなが同じレールに乗せられて前に進んでいた感覚がある。

この頃の社会を支えていたのは高度経済成長真っ只中に生まれた新人類とかバブル世代と言われた世代である。人口は増え続け、子供たちも多かったので、画一的な教育や仕組みがとても合理的だったのだろう。社会の仕組みに人々が合わせて生きてきたのだと思う。中には窮屈に感じていた人ももちろんいたと思うが、高度経済成長で土地や株価が上がり続け、夢や希望に溢れて世の中が明るい雰囲気に満ちていたこともあり、ある程度我慢できたり多少嫌なことがあっても忘れることができたのかも知れない。SNSはもちろんインターネットも携帯電話もないし、コミュニケーションがほとんど対面に限られていた分、時間の流れもゆっくりで自分で何かを考える余白の時間は今よりずっと多かったと思う。

たしかに何かは変わった気がする

その後バブル経済は崩壊し、失われた30年どころか40年に突入しようとしている。かつて日本の一人あたりGDPが世界3位だったことなど嘘であるかのように日本から革新的な技術は生まれにくくなっている上、少子化時代を迎え日本人の人口は減っていくことが確定してしまっている。

ポジティブに捉えれば、日本の社会における一人あたりの重要性や濃度が増してくるとも言える。あらゆるものが多様化し、今まで胸に秘めざるを得なかったLGBTQなどのセクシャルマイノリティーが決してマイノリティーではなくなる日も来るかも知れない。食事のアレルギーも音楽の趣味も画一的なことが合理的ではなくなってしまい、社会が人々に合わせて変化していくことが求められていく。

これが時代なのかどうかはわからないが、確かに何かは変わったように思う。

これから求められること

画一的な教育や仕組みは窮屈に感じることもある反面、そのレールに乗っていれば確実に何かを得ることもできたように思う。一億総中流社会とはよく言ったものだが、それで満足するのであれば特に世の中にはストレスを感じずに過ごせていた。

それでは今はどうか。レールは基本的には誰も敷いてくれず、変化が激しいので前例が通用しにくくなっている。異常気象という"異常"が"通常"になっていき、自らあらゆる選択肢から選択をし続けて生きていかなければならない

「恐竜はなぜ絶滅したのか」という問題については諸説あるが、ダーウィンの進化論に照らし合わせれば環境の変化に適応できなかったことは一つの大きな要因なのは間違いないだろう。私たちはそうなってはいけない。

日本のGDPが諸外国に追い抜かれたのも、各国と相対的に挑戦をしなくなったからではないか。一種の平和ボケということなのかも知れないが、日本の高度経済成長は、根拠のない自信に支えられてがむしゃらに挑戦をしてきた成果だと思う。人口が10倍の国と経済的に対抗するには、少なくとも1人あたり10倍の挑戦をしないといけないはずだ。

選択をし続けること、挑戦を賞賛すること、多様性を受け入れること、この3点を世の中の仕組みに溶け込ませることが重要だと思うし、この仕組みづくりをする側を目指す若者をまずは増やして行きたい。

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