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あるがままの本質

スタイルは大切です。それさえあれば、何でも美しく見えます。しかし、スタイルにばかり気を取られると、その背後や根底にある、本当に大切なものを見落とすかもしれません。

たとえば、伝統武道や現代スポーツでは、スタイルやフォームが重要です。まずは、それを模倣しながら学びます。日本ではこれを「型(かた)」と呼び、「形」とも書きます。「スタイル」や「フォーム」と同義です。技を身につけるためには、この型を覚え、それが身体に染み込むまで繰り返し練習する必要があります。

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柔道、合気道、剣道といった日本の伝統武道や、華道(花道)、茶道、書道のような伝統芸術には、「級(きゅう)」と「段(だん)」という二つの段階があります。

まず「級位」から始まり、五級から一級までカウントダウンします。この期間は型を覚え、それを反復して身体に染み込ませることが最優先です。型がなければ基礎は築けません。この段階では、独自性や創造性を求められることはありません。

一級を修得すると、「段位」の領域に進みます。ここでは方向性が一変し、一段から二段、さらに上へとカウントアップします。最高段位は種類によって異なり、五段、六段、あるいは七段に達することが多く、それは人生を通じた取り組みとされています。この段階では、求められるものが全く異なります。

すべての型やフォームを完璧に習得し、それを自然体で披露できるようになったとしても、その「完成度」が逆に機械のような存在、あるいは現代で言うAIのようになってしまう危険があります。教え通りに正確で、まるで「歩く教科書」のような存在になりかねません。

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段位の世界は非常に興味深いものです。何年もかけて技術を習得し、型やスタイルを身につけたにもかかわらず、次の段階に進むためには、それらを「手放す」ことが必要になります。

習得した技術に自信を持ち、誇りを抱いている限り、AIや機械と同じ「優秀さ」の域を超えることはできません。ここで求められるのは、存在そのものの目覚めです。

技術を完全にマスターしていても、その「完璧さ」には逆説的に「欠陥」があります。この世界における完全性とは、不完全性を含むものです。不完全でなければ、宇宙は宇宙として存在できません。完璧性は、時空を超えた永遠の領域にのみ存在するもの。この現実世界で生きる以上、不完全性を受け入れることこそが生命の原動力であり、すべてを前進させ、進化させる鍵なのです。

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すべてが完璧だと感じ、何もかも達成したと思う瞬間、人は停滞します。「100%完成」の状態では、それ以上成長する必要がなくなります。言い換えれば、生きる意味を失うのです。自分が「アルファ」であり「オメガ」であると感じてしまうのです。しかし、もしその完璧さが型やスタイルの習得にのみあるならば、自分自身を見失っている可能性があります。ここで問い直す必要があります:

自分は誰なのか?ただスキルを磨くだけの存在で、機械やAIと変わらないのか?

そんなことはあってはなりません。

段位の世界に入るということは、本質に向かう道を歩み始めることを意味します。たとえば、ヨーロッパの肖像画家がカメラの発明をきっかけに「自分は単なるカメラではない」と気づいたように。そこから、本質を絵画で表現する道が開かれました。

カメラの発明と進化は、画家たちにこの覚醒をもたらしました。それまで画家は、まるでカメラのように正確さを追求していました。しかし、カメラがその役割を超えてしまったとき、画家たちは気づきました。本当に目指すべきものは、技術的な「級位」の完成ではなく、「段位」の本質なのだと。そして型やスタイルを「手放す」必要があったのです。

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同じように、現代のテクノロジー、特にAIも似た挑戦を突きつけています。生成AIはコンテンツ制作において卓越した能力を持ち、芸術作品の基盤を提供できます。しかし、カメラが絵画を変えたように、AIは現代の芸術家(作家、デザイナー、映画製作者)に再考を促しています。

技術的な完璧性は、級位と段位の違いを浮き彫りにします。これまで型やフォームを追求してきた中で、テクノロジーや存在的な気づきが「完璧」という概念が神話にすぎないことを教えています。

完璧であること自体が欠陥なのです。そして、型やスタイルを「手放し」、あるがままの本質を探求するよう促されているのです。

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本質とは何か?

それは存在そのもの、真の自分であること。自分の核となる存在を開示することです。この探求を「あるがままの本質」と呼びます。

服を脱ぐように、技術(型やスタイル)への依存を手放す必要があります。ただし、これは自意識過剰な表現を意味するものではありません。それはまだ級位の域にとどまる自己中心的な表現です。技術への誇りが、本質から遠ざける原因になります。

真の自分を見つけるためには、表面的な自分を忘れる必要があります。禅僧・道元の言葉がこれを示しています:

道を学ぶとは、自己を学ぶことである。自己を学ぶとは、自己を忘れることである。

これこそが段位の追求—あるがままの本質への道なのです。

では、どうすればこの「手放し」の領域に進むことができるのでしょうか?

それは練習を放棄することではありません。技術や型、スタイルを続けなければ、それらは失われます。怠惰を肯定するわけではなく、むしろ謙虚さを養い、意識的に「初心」を保つことが必要なのです。

もう一つの方法は「過剰な練習」です。技術を極限まで繰り返し、疲れ果てるまで実践することです。たとえば、書道家が何千枚もの作品を書き続け、描く行為そのものが思考を超えた状態に達すると、その純粋な描写の中であるがままの本質が現れます。同様に、武道家が絶え間なく組み手を続け、疲れ果て自己や相手の意識を超えた純粋な戦いの中で本質が浮かび上がるのです。

これが「手放し」の本質です。技術を極限まで使い尽くし、表面的な努力や意識が消え去ることで、ようやく真の手放しが始まります。

禅の公案修行もこれを象徴しています。臨済宗の修行者が問いかけに取り組むことがあります:

両掌打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提せよ(両手を打ち合わせると音がするが、片手にはどんな音があるのか。それを報告しなさい)

理論的な答え、たとえば「非二元性」や「主客一体化」といった知識に基づいた回答は表面的なものとして退けられます。師匠の「違う!」という返答が修行者をより深い思索と疲労に導きます。

何週間、何カ月、あるいは何年も葛藤を重ね、知識を超越したとき、師匠に突破が認められることがあります。

ただし、疲れ果てることや長い時間を費やすこと自体が自動的に認められるわけではありません。「計算された意図」がある限り、それらの試みは表面的なものとみなされ却下されます。

日本の哲学者、西田幾多郎(禅者でもある鈴木大拙の友人としても知られる)は、見性(禅の悟り)に至るまで長い年月を費やしました。彼の深い哲学的知識や禅への造詣、さらには著名な学者としての名声が、皮肉にも大きな障害となったのです。

「手放し」が重要であると知っていても、それを本当に実現するのは容易ではありません。努力、謙虚さ、そして存在的な葛藤を通じてのみ、あるがままの本質に到達できるのです。

もとの英語記事はこちら

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