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【映画レビュー】記憶と記録によって映画の本質を描き出す「aftersun/アフターサン」

生きたまま焼かれるかのような酷暑が続いている。家から出るのが辛い。涼しい家の中でも夏らしさを感じたい。そんなあなたには現在Amazon prime videoで配信されている「aftersun/アフターサン」をお勧めしたい。バカンス映画の傑作であると同時に、誰もが感じた事のある"記憶"が持つどこか呪縛的な側面を描き出した本作について今回は話していこうと思う。ネタバレは全開なので未鑑賞の方は是非鑑賞後に読んでいただきたい。

以下ネタバレあり
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公開当時の筆者の本作に対する印象は、全体的に抽象度が高く、説明的な表現を極力排した、映画的な余白が持つ豊かさに満ちた素晴らしい映画であるといったところだった。それと同時に感じたのは「記憶と記録のあり方、関係性を描く事で映画の本質を浮かび上がらせる」という側面を持つ映画でもあるというものである。
オープニング、一昔前の家庭用ビデオの映像から本作は幕を開ける。その内容は主人公ソフィとその父であるカラムがバカンス先のホテルの部屋で話しているというものだ。その中でソフィが投げかける「11歳の時将来は何してると思ってた?」という質問に黙り込む父のカラム。そのあとしばらくしてビデオが一時停止され、その停止されたテレビ画面に、恐らくは成長したソフィと思われる人物のシルエットが映り込んでいる。
このテレビに映り込む女性の影によって「誰かが過去に記録された映像を観ている」という事が観客に示される。これは我々大衆と映画の関係とも同じものである。映画はリュミエール兄弟によって発明されたとされるのが通説であるが、彼らによって映画が発明された時から現在に至るまで、「過去に記録された映像を観客が観ること」が"映画鑑賞"であるという構造は大きく変化していないからだ。
そんなオープニングから、記録であるビデオが巻き戻り初め、フラッシュのように点滅する光によって、どこか抽象的なクラブのような空間にいる女性が断片的に映し出される。この女性もまた成長したソフィだと考えられる。このクラブ的な空間の表現は、ソフィの内面世界であると同時に、彼女にとってはもう断片的なものになってしまった"記憶"から、"記録"として確かに残っているあの夏へと再び立ち返るという事の表現なのだろう。
そしてこの映画は3つの視点の映像に分ける事ができる。前述した成長したソフィの視点と、抽象的でどこか彼女の内面世界のように感じられるクラブの視点、そして本編のほとんどを構成する客観的に主人公2人をとらえる視点だ。この客観的な視点の映像は成長したソフィの中で、"記録"と"記憶"から再構成されていくバカンスの思い出それ自体であるように筆者には感じられた。
この「"記録"と"記憶"によって再構成されたもの」というのもまた、我々と映画の関係を示しているものと言えるだろう。
映画を鑑賞している間は、スクリーンに映し出されるカットと音だけが瞬間的に存在している。それが連続的に続く事で一本の映画を鑑賞し切る事ができるわけだが、一本の映画として完成された"映画"は我々の頭の中にしか存在しない。つまり"記録"された映像が瞬間的に映し出されていくのを"記憶"し、それを頭の中で後から再構成したものが一本の完成された"映画"であるからだ。

本作はこのような映画の構造の面白さだけが魅力の映画ではない。さりげないが鑑賞後に印象深く残る映画的なドラマの魅力もこれ以上ない程の仕上がりとなっている。
本作のエモーションの中心でもある父カラムの、明るく良い父親だが、どこか影のある人物であるという表現。抑うつ的な感情と、どこか希死念慮を感じさせる彼の複雑な感情を表現する、さりげないセリフや表情、ソフィとのやり取りも見事なものだ。
例えば、恐らく仕事も生活も思うようにいっていないのであろうカラムが、ダイビングのシーンで口にする「40歳なんて想像できない。30歳の自分に驚くよ」というセリフとその後に見せる酷く疲れた表情。このセリフはオープニングの「将来は何してると思ってた?」というソフィの質問に答えられなかった事とも呼応する作りとなっている。彼が自分で理想に思い描くような人間にはなれずに、ただ年齢を重ねてきてしまったと思っていることに対する苦しみを、このさりげないセリフと細やかな表情だけで表現している。
極め付けは中盤のカラオケ大会のやり取りから始まる一連のシーンである。「歌のレッスン受けさせても良いぞ」と言うカラムに「お金もないのにそんなこと」とソフィが返すこのやり取り。彼の不安定な状態を考えればこの言葉はあまりにも鋭利過ぎる。ソフィも子供ゆえの純粋さと、家族特有のデリカシーの無さが相まって口にしてしまったのであろう。このやり取りの後でカラムが1人で真っ暗な海に向かって歩いていき、そのまま戻ってこないワンカットがあるが、このカラムの行動をソフィは全く知り得ないはずだ。
筆者にはこの一連のカットは、成長したソフィが思い出を再構成する中で、彼と同じ歳になった今だからこそ分かる"あの時"の父の不安定さと、そんな彼に自分が口にした言葉の鋭利さに対する後悔の念から、彼女自身によって補完された抽象的なカットなのだろうと感じられた。

前述してきたようにエモーションの中心人物であるカラムだが、彼の抑うつ的な感情や希死念慮を結果的に後押しする事になってしまったであろう決定的なシーンは終盤の誕生日ソングのサプライズのシーンである。
このシーンにおいて彼は前日にソフィを閉め出した事に引け目を感じている。更に前述したように彼は自分の人生も上手くいっているとは考えられていない状況だ。そんな彼に対して、皆んなが「彼は良い人〜」とにこやかに歌うのは、彼には自己嫌悪を加速させるだけだったのだろう。サプライズを受けた彼の表情はこれ以上ない程に曇っていたからだ。
そこからの最終盤で、その後彼は死に向ったのであろうという事が示されていく。「ソフィ、愛してるよ。それを忘れないで。」というメモ書きが、さりげなく死を予感させている。

このバカンスが2人で過ごした最後の時間だったのだろうと考えさせる決定打が最後のホテルでのダンスシーンだ。最後だと分かっているからなのか、娘の中に残る記憶の中の自分は明るくあって欲しいという願いが感じれる、妙に明るいカラム。クイーンの"Under Pressure"が流れる中で踊る2人の映像と、ソフィの内面世界であるクラブの中の2人の映像が入り混じるこのシーンは、歌詞の"This is our last dance"が文字通り最後のダンスだった事を想起させ、歌詞と映画のシンクロによって複雑なエモーションが一気に爆発するシーンとなっている。
「話して良いんだよ。大きくなって…。色んなパーティーや、男の子のこと。」と言ったのに、成長した時には側に居てくれなかったじゃないかというソフィの心の叫びや、幼すぎて愛を与える側にはなれなかったという彼女の後悔。それらが音楽の盛り上がりと共に残酷に映し出されていく。
だがこのシーンで父に対してのソフィの感情が爆発するというのはマイナスな面だけではない。このシーンで幼いソフィはカラムに抱きしめられているが、成長したソフィはカラムを抱きしめている。幼すぎて分からなかった彼の苦しみや痛みを大人になった今ならソフィには理解できる。あの時は愛を与えられる側でしか居られなかったが、今なら心の中でではあるが、記憶の中の父に抱きしめるという形で愛を与えてあげられる。
このようにしてソフィは父に対して、ある種の折り合いを自分の中でつけようとしているように筆者には感じられた。

そして本作はラストカットの切れ味も抜群である。あのラストカットは、カラムがソフィの内面世界の象徴でもあるクラブへと消えていく、つまりは死に向かってしまい記憶の中の人物となる事の表現であるとも考えられる。
しかし、このシーンの赤ちゃんの声に注目すると違った解釈も浮かんでくる。前述したように、ソフィは父に対して内面世界で愛を与える事で複雑な感情に区切りをつけた。そして今彼女は子供を持ち、愛を与える側の人間でもある。
あの時の記録と記憶を再構成し、父の感情に寄り添う事で彼女は二重に愛を与える側の人間になれたのだ。筆者には去っていくカラムの姿が、娘のそのような人間的成長を記録し、穏やかに再び彼女の内面世界へと帰っていく姿にも見えた…。

監督・脚本のシャーロット・ウェルズは本作が長編デビュー作だと言うのだから驚きだ。こんな怪物的傑作を撮った彼女の今後の活躍に注目していきたい。

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