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“それ“を例えてみる
こんにちは。ちゃたすけです。
今日はちょっとイメージを文字起こししてみます。
私たちの実存は言葉を超えた“それ“なんです...。
これ本当に伝えるのが難しくて...。
なぜかと言うと、言葉に落とし込んだ途端、概念化されてしまって別物になってしまうんです。
それはあらゆる概念を超えてまして...。
表現が不可能なんです。
感覚的にわかる感じです。
なので例えてみます。
私達を“水滴“だとしましょう。
そして大きな海の中にいます。
ですが私たちは“お魚“として生まれたという幻を見ています。
尾ひれも背びれもあるので、自分の力で海の中を縦横無尽に泳ぎ回ることができると信じています。
そして、素敵なお魚さんや、海藻の棲家、温かい海域などを目にします。
このお魚意識が自我の意識です。
私達がお魚意識でいると、竜宮城が見えるんです。
ですが本当は私たちは“水滴“です。
目にも鮮やかな竜宮城も実は“水滴“からできています。
私達は水滴なんだ!と気がつくことが「私は在る」という感覚なんです。
そして、それに気がつくと、竜宮城も水滴だし、他のお魚も水滴だったとわかるんです。
そして、“水滴“は海の一部なので、ただ流れるままに在ることしかできないとわかるのです。
でもそれは全体と一致していて心地よく、至福なのです。
ここまでは、自我を絡めた話なので、概念化可能で言葉にできるんです。
さて、ここからが本題です。
じゃあ“それ“ってなんですか?ってことなんです。
言葉の限界に挑んでみますとですね...。
私たちは水滴ですよね?
私たちが“水滴“だと思っているうちは、周りにも“水滴“があると見えて分離が見える。
ですが、ここは海の中。
海の中の水滴は、どうして自分が水滴だとわかるのでしょうか?
つまり、自分が全てであって、唯一のものならば、どうして“自分“が在ると感じるのでしょうか?
水滴で構成された唯一の海の中で、水滴は混じり、そして消えます。
この海のことを“それ“と表現してるというか...。
感覚なので直感的に理解してもらえたら...。
海はそこにありますが、水滴の“私“という意識が消え去った時、私は“私が在る“を超えて、ただその海、つまり“それ“となり、それゆえに存在すら消えるが存在している。
でも“それ“は“それ自身を自覚しないというか...。
全ての+と−が混在し打ち消しあって、無であって有であるというか...。
うーん...。
言葉にすればするほど遠ざかる...。
こんな感じです...。
今日もありがとうございます。