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検査、輸血、免疫抑制薬、レントゲン、解剖依頼、諸々、全てが納得いかない、けれど〜


医者でもないのに、現代医学に対し納得がいかない、改善されなければならないと常々思ってしまう。

思った所で自分が何かを変えられない、

でも、誰でも自分の肉体は自分で守らなければならない。

外部に依存し過ぎては、自分の肉体を放棄した事になる。

痛い思いや辛い思いは、自分もしたくないし、他人の体験も見るに耐えられない。

そう思ってると、またまたこういう動画を見つけてしまうもの。

この動画でも言うように、私も全てを否定してるわけでなく、究極な時は西洋医学もギリギリ必要な時もありうる。

人間なのか或いはある存在達の波動で、この世の中をつくりあげてるのだろうから、

病気をつくりだしたネガティヴな波動がこの地球にあるから仕方がないし、

そうしていろんな生命体が混在し存在していたのだから〜


以前中国の鍼灸師の先生に学んだ時、

「病気になったら死んだも同然なんだよ、中医学や東洋医学は未病を治す事を目的としているからね」

そうだよ、絶対そう!、病気になってからでは遅すぎる。

中医学も歴史が古いし、中国もいろいろやらかしてるから根源的な謎を知ってて隠されてるんだろうな〜

西洋医学を発展させられた日本は、利権と実験の場と化し続けているが、それらが現在だからこそ必要な時もあるが、

出来れば病気なんかしたくないし、肉体を余計な事でいじられたくはないな〜

私達は、本末転倒な世界を何の為に生きてるのだろう、

パートナーに早く気づいて貰いたかった事が沢山あったが、もう人間界の体験は終わってしまった。

今頃あちらで何を思ってるんだろう??



気持ちが落ち着いたので、彼の事を記録の為と、自分なりの思いを浄化しようと思う。

しつこいけれど、自分なりに検証してみたい。

彼の病気(特発性間質肺炎、肝硬変、肝性脳症)の原因は結局分からない、と最初から最後まで言われた。

私は最初先生に「ワクを4回打ってから、おかしくなった」と言ったり、

強い薬を出された時「余計悪化してるようです」と言ったり、

お医者さんの気持ちを逆撫でするような事をポロッと言っていた。

「有難う御座います」や「お世話になりました」は感謝として、複雑な気持ちの中で心を込めお礼は言う。

診てくれた先生は病気内容などにより、変わったりしたが、最後まで見届けてくれたのは呼吸内科の先生だった。

途中危ない状況の時にも、

私「コロやワク問題が世の中蔓延してるようですが、主人の病気と関係してるのではと思いますがどうなんでしょう」と言えば、

「それは関係ないです」と却下された。

いくら言っても無駄と分かっていたが、言わないと気が済まなかった。

2回目の入院手術時、輸血が必要で怪訝な気持ちになった。

その輸血の血液は大丈夫ものなのだろうか?

私の神経質さはおかしいのだろうか。

「間質肺炎は難病で、年齢がいけばいくほど、肺は下向するので、3年後半数は亡くなり易い」と、はっきり言われたが、

いや絶対なんとか治してやる!と意気込んでいた。

しかし、私と彼の考えはまるで違っていたし価値観もずれていた。

薬をきっちり飲まなければいけないと彼は必死、入院ばかりで家庭療法は少ししかやれず、

退院すると、薬を飲む為に食事の時間をしっかりして欲しいと言い、焦っていた。

彼の長年の凝り固まった観念、薬で良くなると思うのは仕方がない。

目の手術、盲腸、腸閉塞の経験もあった彼、

昔から風邪や熱が出れば、すぐ薬で症状を止め仕事は休んだ事がない程だった。

私は手術や入院経験はあったが、病院や薬は好きではないし、他人に身体を弄られるのは神経に触る。

生きてる途中から薬や検診に違和感を覚え、近寄らないようにしてきたし、倒れたら仕事を休み寝て治すが主流。

そんな私と違う彼は、病院や薬にすがるしかないと思ってただろうし、病院からも飲み忘れたら危険と言われていた事だろう。

彼の思考回路をなんとかしようと騒ぎまくってもがいて来たが、頑固でコテでも動かない。

彼自身が悪化し身体が耐えられないと感じた頃から、少し気づいたのか、

私の言う事に耳を傾けようになり始めた、

がしかし、長年培われてきた習慣を、一気には変えられない所まできてしまった。

薬は麻薬と同じ、やめられない所まできてしまった、やめたら危険な状態になってしまう。

まして悪化すればする程、その麻薬を手放せなくなるのは当然なのだ。

副作用もなく進行を遅らせるものがあるのなら試してみたいし、理解ある先生に見て貰いたいと私だけが願ってた。

悪化する度、大量の薬が更に体に入っていき、関係ない臓器までダメージをくらう、

内臓機能はボロボロになっていくのを見届けるのは辛かった。

強い副作用の薬ほど(しかも一日一万円以上する高薬)絶対飲まなければと、神経質になっていたのは病院がそのように促すから、

そしてそれも確実に良くなる訳ではなく「保証は出来ませんが今はこの方法が最善なので、やってみます」と、

そしてそんな実験のサインを私に書かせる、病院を信じてる彼に口出しは出来ない。

私に医学の知識がない事は非常に悔しい。


自分が過去性で医者のような仕事を目指し、挫折した事が何度かあったと以前言われた事があった。

もしそれが本当なら、過去性から私が西洋的医学を嫌いになった理由がそこにあるように思う。

実験室の夢を何度も見た事もあり、いろんな実験をしてたか、人体実験されたようにも思う。

パートナーも、過去世で中国で薬草を取る仕事をしていた時がある、と言われた事があった。

彼がそんなようには思えなかったし、そもそも薬草や自然療法に興味もないのだ。

しかしある時アロマトリートメントを彼に施した時の事、

アロマの知識も、私が教えたこともないのに、自分の身体についた香りを嗅いで、

「これは〇〇の精油でしょ」と何種類か当てた事があった。

私「えっ!、なんでその精油の名前知ってるの?、それに香りで当てるなんてすごいね」

彼「なんとなく名前はどこかで耳にしたような気がする」

私「やっぱり過去世で薬草積みしてたんじゃない?、それなのにパパは自然体の療法より西洋医学の薬大好きだよね」

そんな会話をした事があったが、今思えば今世では実験台になろうと決め、薬依存やワクを打ったのか?と、勝手な妄想をしてしまう。

香りは不思議、香りから記憶が蘇る事があるのだ。

私も人にやってもらった時、何度か過去世のような明晰夢を見た事があった。

彼は不意に直感が冴える事がよくあり、先見の目があったりすると、

「神様〜」と、私は彼の事をよく神様呼ばわりしていた。



話を戻し、

そんなに薬に依存しなくとも、世の中には他の手立てが沢山あるのに、

むしろ、検査や手術、輸血、薬物治療など、何もしない方が良かったとさえ思う。

検査が始まってから明らかに悪くなり、仕事も辞めざる終えなくなって彼もさそがし辛かっただろう。

病院からすれば、「そのままにしてたら死にますよ!」と言うだろう。

彼に私の考えや思いが通用しなかったのは、彼の中には私には理解できない目的があるのかもと感じてしまう事もあった。

私の経験上、薬で良くなったと感じたのは(動画で話してる通り)緊急の時ぐらい、

体調を整えるには、薬を飲まず休んで断食や栄養を入れるかの習慣が根付いていた。

薬害で死ぬより、弱って餓死し死んだ方がマシ、なんて思ったりした。

乳癌の人が医者の治療を受けず、自然療法で痛みを軽減させ、最後は静かに亡くなった、と言う話を知人から聞いた事があり、理想的だ〜と思ったりした。


彼の身体が悪化する度に増えていく薬、

更に彼の望みで、自分で手配した訪問介護の人や訪問医療の人達が家に来ると、

その人達も何かあった場合の為にと点滴と薬を置いていく。

大量の薬を見るだけでこちらが頭がおかしくなりそうだった。

入院すれば、点滴の針が何本も刺され、腕を痛がっていて、身体は急激に痩せたり、浮腫で太ったり、人相も会う度変わっていた。

これが原因不明とでも言えるのか、

物理的な原因は必ずある。

そこに精神的なストレスも加わったのは分かるけれど、

” ワクから始まりほぼ薬害で死んだ „

と言いたくなる。


段々に口からの食欲が失せ味がせず「不味くて耐えられない」と。

離れてた父の亡くなる前の事を思い出した。

生前6種薬を飲んでいて「食べ物が砂を噛むようだ」と言っていた。

毎日ご飯に牛乳をかけのかき込み、おかずの味がしないようだった。

「薬で生かされてるようなもんだ」と言っていたが、亡くなった時の原因は病気でなく餓死だった。

私達家族は、「絶対胃癌だよね」と言っていたが、病気は何も無かったと亡くなった入院先で言われたのだ、

あの薬の役名は一体なんだったのだろう?

病院は、「ここが悪い、そこが痛い」と言えば、検査したり薬を出したりする、対処療法ばかりで、人間全体を眺めたりあまりしない。

緊急事に苦しい時は薬は必要かもしれないが、何年も飲み続けるものではないと思う。


彼は確実に強い薬、ステロイドやオフェブなど、他10種以上の薬を飲まなければならず、

副作用で内臓はやられ、歯も溶け歯医者もかからなければならなかった。

タンパク質が消化しにくく、肝臓を悪化させるからと、薬の方から栄養をいれ、アンモニアも排出してくれるからと、食べ物は1/3しか与えられなくて、不満も漏らしていた。

彼は次第に食物を口から入れられず、点滴と薬ばかりとなっていった。

免疫が自分を攻撃するからと、免疫を抑える薬も投与され、

これでは本来の人間の自然治癒力や免疫力など全く意味がなくなるではないか。

薬で生かされてる人造人間のようだった。

私は希望が見えず、何も言えなくなりどんどん自分の手が届かなくなっていった。

それでも奇跡を信じ、神様に祈るしかなかった。

危機的状態の日、夜中12:00時ごろ連絡が入り、

私と娘達と孫達はいっせいに車に乗り病院に向かった。

先生は小さい子の面会許可を病棟に依頼したが、病棟看護室では許可が降りず、

私が孫達を見てる間、娘達と小学生の子1人だけが個室面会にいった。

待つ私は彼に早く会いたかった。

先生が、なんとか小さい子達も全員合わせたいと病棟に強く頼んでくれ、

その後私と小さい子達も、彼の部屋に入れる事に、

小学生の子が大泣きの声が大きいので「静かに!」と言いながらも皆で号泣き。

彼の意識は遠のき、私達を分かっているのかどうかも分からなかった。


この日の前々日に彼の携帯から、家で携帯画面上、彼と少し話が出来た。

先生から最初電話が来て、

「自分で携帯のボタンを押し奥さんにかけたんですよ」と言った。

彼は「自分ではやってない!」と手を振ってたが、

先生は「確実に自分でやったんですよ」と言い切り、

本当はどうなのか?
偶然私の連絡先ボタンに触れたのだろう。

その時は弱っていて何か訴えたがっていたけど、意識はある方だった。

亡くなるまでの間、毎日行ってあげればよかった、と後悔。

弱っていく彼を見るのが辛かったのかもしれず、

助けられない、手も足も出ない自分が情けなくて仕方なかった。

そして、最後病院から呼ばれた時、痛みや苦しまないようにとの薬を投与し始めていたので、意識は遠のいていた。

目はうつろ、水の一滴も与えられない口の周りは血の塊で固くなっていた。

娘達と孫達は夜中3時頃帰り、朝方また来るとで病院を出た。

私はひとり彼のそばで、泣きながらマッサージをしたり、

一滴も水を与えられない乾いた唇や舌に、ビタミンEや水で潤したりした。

思いつく限りの事をやって彼の身体に触れていた。

先生も「沢山触ってあげて下さい」と言った。

まだ意識があった時、酸素吸入器を自分で外すらしかったので、外れないよう固定されていた。

苦しかったのだろう。

最後はモルヒネを投与し「痛みなどはもう無いですよ」と先生が言った。

酸素呼吸機器により、植物人間のように呼吸だけ動かされているようだった。

微かに唇が動いたり、足が動いたりしたようにも感じたが、筋肉を触った時の反射なのだろう。

出来るだけ体に触れながら、話しかけたり祈ったり、胸が張り裂けそうな思いで付き添った。

何度か看護婦さんが酸素濃度オキシメーターを確認に来る。

「だんだん下がって来てます」と

「娘さん達何時に来ますか?」

「10:30頃だと思います」

暫くし、別の看護婦さんが、

「レントゲンを撮るので、10分くらいあちらでお待ち下さい」と言うので離れた。

終わって呼ばれ行ってみると、既に呼吸が止まりそうになりびっくりしてしまった。

すぐに悟った、

もう随分前に既に彼は…

今まで呼吸器でなんとか命を繋いでいただけだったのだと思った。

しかし、何故こんな時にレントゲンを撮るのだろう、

まだ娘達が来てないのに、と疑問と悔しい気持ちになった。

先生は、

「午後に私は別の所に行かなければならないので、〇〇時からは別の先生に頼んでおきますね」

と少し前に言っていたが、

思い直し、彼が逝く最後まで見届けたい為の方法の処置をしたのではないか?、といろいろ勘繰った。

どちらにせよ、彼はもう生き続ける事は無理だった。

しかし、娘達がくるまでレントゲンは待っててくれれば良かったのにと、悔しかった。

呼吸が完全に止まってしまい、徐々に体が冷たくなってくる。

娘達にLINEをしたり電話をしたりするが、なかなか繋がらず悲しさとイライラで頭がおかしくなりそうだった。

夜中過ぎに帰って、また子供達を乗せ朝方車で来るので、娘達を焦らせてはいけない。

やっと電話が繋がり、逝ってしまった事を伝えた。

娘達は最後の面会の時、既に覚悟していたようで慌てなかった。

娘達と子供達が来て、彼を囲んで泣く事しか出来ない私達を、

暫くの間先生は見守っていた。


先生「意識はなくなっても、耳だけは聞こえるので、話しかけてあげて下さい」

耳が聞こえるなんて本当なの?と疑った。


死亡確認を記録し、先生から、

「やはり、何故このようになったのか原因不明なんです、元々膠原病のけがあった可能性が〜」

と最初と同じ事を話し、

遠慮がちに「出来ればで良いので、解剖をさせて貰いたいのですが」と言って来たが、

私達は同意せず、

私「申し訳ないですが、身体を傷つけるのは〜」

先生「いえ、申し訳ないなんて思わなくてもいいんですよ」

解剖をすれば、ある程度分からない事も分かったかもしれない。

しかし、それがワクの仕業の可能性もある、と分かったとしても、私達には言わないと思う。

個人的に先生が感じたとしても、大きな組織では揉み消されるに決まっている、

今更原因がある程度分かったとしても、戻っては来ないのは確かなのだから。


先生には最後まで、いろいろ考えて頑張ってくれた事には感謝する。


葬儀屋さんに依頼し、彼を家に連れて帰る。

先生は別の所に行かなければで挨拶をし別れ、

他の先生と数人の看護士さん達が、最後に深々と頭を下げ見送ってくれた。

私も病院に世話になったという感謝を込めて泣きながら深々と頭を下げた。

本当に最後まで、お付き合いしてくれた事にはとても感謝している。


翌日先生から電話があり、娘が電話を取って、話をし、

娘が「お母さんが最後納得いかなかったみたいです」と伝えたらしく、

その後、先生から電話があり、「娘達が来る前にレントゲンをし、その後息を引き取ってしまった事が残念です」という事を泣きながら伝えたが、

病院を責めるような言い方はしてはいけないと思い、

「私が “娘達が来るので、レントゲンを後にして貰いたい„ と言えば良かったです、何もしてあげられなくて、本当に後悔ばかりです」

先生「そんな事はないですよ、最後まで本当によくやりましたから、そんなふうに自分を責めないで下さい、今後も何かありましたらなんでも話して下さい、私はそういう役名ですから、いつでもお話を聞きます」

「本当にいろいろお世話になりました、有難う御座います」


病院は綺麗だったし、徹底した管理のもとで、退屈はしてたけれど、彼は安心して過ごせたと思う。

無謀な生き方しか彼は出来なかったのは、私との夫婦の相性にも原因はあったのだろうけれど、

全ては運命と思うしかない。

今の人生は一つの道しか渡れないのだ。


彼がまだ健在だった頃、私が言うワクの危険性や自分の身体を労わる事がなかなか伝わらなかった。

私は家族から頭がおかしい人間になっていて、誰も当時ワクについて調べた過激な情報に耳を傾けなかった。

娘達は、

「例え、パパがそれで身体がおかしくなっても、パパがしたい事をさせてあげれば」と言い、

悪態をつく私は、ただのパートナーにとっての煩いストレス原因人物とされていた。

家族に理解されない陰謀論者と成り果て、

頑固な彼に口を挟んでも、伝わるどころか、私の話からいつも逃げていた。

彼も途中で気づき始めた頃は遅かった。

「もうそれ、言っても仕方がないよ、終わった事だから、もういいんだよ」

と、彼は自分を貫き通していた。

最初の段階で毒消しをしていれば、大掛かりな治療など受けずに生き続けたのではないかと思ってしまう。

しかし、それすら応じないのだから、

やはり人生は自分自身で選択するものなのだ。

今世での肉体は一度きり、もう彼の姿は見る事はない。

彼が残していった手帳や記録していたものを集めながら〜

何故あんなに複雑になってしまったのか、確かめなければならないと思ってしまう。

断捨離好きな娘が「少しずつ片さないとね」と言うのに対し、

「パパのものあまり捨てないで残しておいて」

「ママは、きっとどんな薬だったか後で詳しく調べたがるから、資料はちゃんと残してあるよ」

いや、それよりこれからやる事が、学ぶ事がまだまだ沢山あるのだ。