父が何を思って生きてたのかを思い返す
西洋文明を学んでいた時期、日本の良さを知らずにいたが、あるきっかけで人生の途中一変し、今では日本の歴史に専念し、捏造された歴史や日本人としての誇りを取り戻す為、活躍している田中英道先生という方を最近知った。
縄文時代からを歴史などから紐解く田中先生の話はとても興味深く、まだまだ私はこれからだが学びたくなってる。
歴史は昔からからっきし興味がなかった。
暗記ばかりさせられたテストはいつも低く、大嫌いで仕方がなかった私は、この歳になって日本の歴史を学び直さなければならない、と思うようになっていったのは、コ○○禍になってからだ。
戦後はGHQの計らいで戦争に負けた日本は戒められ、洗脳教育をされて来た。
私の知人の今亡きお父さんの話、
戦争に負けた日本は戦後、教科書を黒く塗りつぶさせられ、書き換えられたものを学ばなければならなかったと言う。
知人のお父さんは悔しくて無念だったと言われていたそうだ。
そして私の亡き父も同じ世代、
当時のその時の思いはいかばかりだったのだろうと想像してみた。
父は末っ子の私に戦後の話は一切しなかった。
小学に上がる前、幼稚園に通わなかった私に絵や文字を沢山教えてくれた父は、本当は教員を目指していたと言う。
柔道で体を壊し学問の道を諦めたらしいが、身体を壊したくらいで諦めるような父では無いのでは?と感じていた。
父は子供達に殆ど自分の事を話さなかったので、詳しくは知らず全て母が話してくれた。
赤紙を受け取る事がなかった父は体を壊した為で、飛行機整備につかされたと母から聞いた。
日本歴史や海外の映画が好きだった父は、辞書のような厚本を沢山買い、戦争の本やビデオをも沢山揃え時折一人で見ていた。
私は勉強は嫌いで全く歴史も世界史も日本史も、文明や文化に全く興味がなかった。
父は頭が良いのに似なかった私に、学校の勉強が出来なくても一切何も言わなかった。
祖父がいた頃はラジオ屋をやっていて、その後は農家を営むようになっていった父。
家族を養って、食べていくのがせーいっばいだった時代。
学校の勉強より生きる事食べる事の方が大事だと考えていた父は、子供達に農家の手伝いをさせ、働いたらお金が貰える、と言う事を小さい頃から学ばせた。
日本のあり方や歴史にも興味もなく生きていた私は、毎日新聞やニュースを見ていた父が何を考え生きてるのだろうなど、子供ながらに全く考えもしなかった。
今となり、父自身にも世の中の疑問や矛盾が、きっとあったのだろうと思うようになってきた。
家族を必死で養ってきた父とそんな会話すら出来なかったのは、今更ながらとても残念だ。
父は何かを押し付ける事はなく、自分の頭で考えて生きろ!と言う姿勢だった。
私が田舎を離れ上京する時、結婚式の時も知らなかったが、父が涙を流してた、と後になって家族から聞かされた。
歳をとってから、自分の事を口下手だと、初めて言葉にした事があった。
厳しくて頑固で真面目で一才弱さを見せなかった父は、とても愛情深い人だったのだ。
亡くなる最後の正月は田舎に帰らず、会えなかった年に父は倒れた。
毎年まめに送ってくれた年賀状の、最後の綺麗な達筆の文字は歪んでいて、あの時体が弱っていたのを感じ胸が痛かった。
今でもその葉書を見る度涙が溢れる。
いつも自分の家に戻る私を、最後まで見送ってくれた父、なにも親孝行など出来なかったけれど、今は感謝で涙が溢れる。
家族に弱さを見せなかった父、父の力強さを感じた後ろ姿は、今でも脳裏に焼きつく。
寡黙で口数が少ない父は父なりに、思う事感じる事がいっぱいあったのだろうなと、今更ながら思う。
だから、父が知りたかった、日本の本当の歴史や戦争の事などを紐解いでいく事が、父への恩返しなのかな、と思う。