美徳なんかじゃない我慢の裏にあるもの
我慢を手放していくと、生きる事が楽になるだけでなく、見えなかったものが見えてくる。
単純に我慢を強いられるような環境に身を置かなければ良いのだ。
そうしてるうちに、我慢を強いられるような境地には立たされなくなっていく。
我慢にもいろんな意味がある。
楽しい我慢なら良いが、嫌な我慢はさっさっと立ち切った方が良いと思う。
人に悪いから、
こう思われるから、
我慢は必要じゃない?
我慢強い自分偉いなー、
実は昔の自分は、↑ こんな感じだった。
これを長年やっていたがある時プッツン。
我慢に限界が来て何度もダウンしたからだ。
それで自分って弱いなーと思い、弱い自分も責めていた。
弱いわけではなく、嫌な事を無理に自分に強いってただけだった。
嫌な事を手放し、嫌な人間関係も切っていくまで時間が相当かかった。
方法がわからなかったから。
数年前、
「自分の喜びの為に生きなさい」
と言われた時、はっとした。
それ迄ずっと他人軸で生きていて全く気づかなかったのだ。
他人の為に我慢は美徳と思っていたから。
そしてそれは自分に嘘をついて生きてたのだ。
実は我慢の裏に罪悪感が潜んでたりした。
自分を痛めつける事で罪悪感から解放されたように勘違いする。
いや解放などされていないない。
何故殉教者のようにな振る舞いをするのだろう。
そんな必要など全くなかった。
それからの私は他人軸でなく、自分の喜びを探し生きる事に決めた。
そうしていくと、段々に、他人をも冷静に見えるようになってくる。
無理に波長の合わない人に合わせようなどとしなくなってくる。
そして変な誘惑や利用してくる人が寄って来なくなる。
自分にとって何が必要で不必要か分かってきて、何かに依存しなくなる。
話は変わるが、
ワクチンが低年齢の子供達に打たせるようになってきた。
お爺ちゃんお婆ちゃんに感染させないようにとうそぶき、純真で疑いもしない子供達を洗脳し、先に罪悪感を植え付ける。
大人自身もそれが美徳だと勘違いし自分にも植え付ける。
罪悪感を植え付けられると、我慢というものが必要になってくる。
我慢してまで、周りの為に〜、という構図をつくらされる。
子供も我慢が美徳だと思わされる。
実際、お年寄りや周りに感染させるなんて事はあり得ない。
病気が感染するのは感染させた人が悪い、と言う風潮があるが、
感染した本人の免疫力が低下してるからであって、健康管理を怠った原因もある。
我慢ばかりしているとストレスが溜まり、免疫が落ち病気になり易く、全てが悪循環なのだ。
しかし免疫を高めるのはワクチンや薬ではない、健康維持しストレスを溜めない、それだけの事。
身体に薬をいれれば丈夫になるものではない。
薬を入れれば入れるほど、身体は病気になり易くなる。
薬はいずれ排出されるものでなければならない。
留まっていたら、徐々に身体に異変が起きてくる。
そんなシンプルな事なのに、恐れを植え付けられ薬が安心だと思わされる。
特に今回のワクチンは何が入ってるか分からない、分からないものを何故確かめもせず、打てるのか?
恐れを植え付けられ、思考をコントロールされたから。
現に周りは、打たない私や友人や家族は健康で、去年打った周りの人達が体調を壊し、感染した!陽性になった!とかで2週間仕事を休む人達が続出した。
皮膚疾患、鼻血、目の充血、健康だったのに肝臓悪化、癌でポリープ切除手術をしたなど、知ってる限りでこんなおかしくな事になってる。
打ってない人がジュディングを受け(自分も少しあったが)自分以外にヘルペスや蕁麻疹、動悸、頭痛になる人達がいた。
ワクチンなど打たず、健康でいた方が人に迷惑をかけない。
排出能力があれば薬は身体の外に排出されるだろうが、溜まり易い人もいる。
ワクチンや医者の薬だけではなく、現代は食から皮膚から空気からも、あらゆる所から汚染物質を吸収している。
この地球では無菌状態の環境などないけれど。
詳しい訳ではないけれど、いつも自分の感覚で知識を入れるので、詳しく説明はできないが、
波動の話を少し学び少し理解し始めてきた。
その波動をもともと持ってるから、出来事が起きる。
波動は目に見えないけれど(見える人には見える)量子力学とやら物理的にも証明されている。
出来事が先ではなく、私達の中にある内在するものがあるから現実に体験する。
我慢が美徳と言う波動が無ければ我慢を強いられる物事はこない。
罪悪感の波動がなければ、そんな境地になることもない。
恐れがあるから、それに見合った出来事が起きる。
植え付けられた波動までもが、表面化し体験させられる。
分かり易く現実化させる。
人間は集合意識で繋がっている、だから世の中の騒動、コロナや戦争など、ネガティヴな重い波動は私達の内在している恐れから導きだし、表面化する。
もし、私達が重い波動を手放し、軽くなったらそういった重い状況は現れず、存在もできない、見えない、次元が変わる。
どこかに罪悪感や周りの為に、とか、気持ちがあるが、それが自分にとって本当に喜ばしく嬉しく幸せな事なのか?を考えてみる。
私はある時他人の為や皆の為というのを外してみた。
だって、それが本当に他人や周りの為なのか、なんて実際分からない。
義理人情もいらないのではないかと思う。
こうして貰ったからこうしてあげなくちゃ、ではなく、こうしたい、それだけで良いのではと思う。
そこに見返りが後々現れたら、してあげたかったのではなく、何かが欲しいという気持ちが先にあった、自分が良い人に見られたいとか。
それは本当の喜びなのか?
良い人に見られる事が幸せな事なのか?
それも他人軸ではないか。
複雑で不要な波動はさっさと手放してしまえばいいと最近は思う。