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戦前の日銀を支配したのはロックフェラーだ⑧
ロックフェラーの甘言に騙された井上の金解禁
ドル買い事件以後、池田成彬のもとには脅迫状まがいの手紙や抗議が届くようになったが、当の池田はこの事件に対して何の釈明もせず、沈黙したままであった。
戦後の1949年(昭和24)、池田が死亡する前年に刊行されたインタビュー形式の回顧録『財界回顧録』(図書出版社)に初めて池田自身が語ったところによれば、当時の円金利が下がっていたので、高利の付くイギリスポンドへ投資をしていた。
ポンドを買うにはまずドルを買う必要があり、そのためにドルを買っていたのであり、ドル投資で儲けたわけではないとしている。
それを公表しなかったのは、ポンドの投資が焦げ付いており三井銀行として赤字を計上したので、取り付けを恐れたからだという。
それでは実際にドルを買っていたのは誰かというと、外国銀行である「ナショナル・シティ銀行」であったという。
長幸男『昭和恐慌』(岩波現代文庫)に記載されている、「時事新報」が報じた当時の記事によれば、ドルを大量に買っていた者は以下のとおりであった。
ナショナル・シティ銀行 2億7300万円
住友銀行 6400万円
三井銀行 5600万円
三菱銀行 5300万円
香港上海銀行 4000万円
三井物産会社 4000万円
朝鮮銀行 3400万円
三井信託会社 1300万円
その他 1億8700万円 (『昭和恐慌』146ページ)
ナショナル・シティ銀行は、いうまでもなくロックフェラー財閥系の銀行である。
“石油王”である初代ジョン・D・ロックフェラーの弟ウィリアム・ロックフェラーが早くから経営に参画していた銀行である。
仮に太平洋問題調査会からの指令によって井上が金解禁を実行したとするならば、シティバンクによるドル買いはあらかじめ仕組まれたものであったとみることができる。
つまり、ロックフェラー財団がスポンサーである太平洋問題調査会が、金解禁をすれば平和を実現できるぞと「甘言」を使い市場を解放させた。
そうしてみずからの傘下にあるシティバンクに金を買い付けさせたのである。
池田成彬と井上準之助
井上はドル買い事件のあと、池田を「国賊」扱いしたが、それまでは良好な関係にあった。
井上が日銀の支店長時代に、池田は三井銀行を代表して取引を行っていた仲である。
池田の『財界回顧』には以下のような2つの挿話がある。
1つ目は、金解禁(1930年、昭和5)の3年前に起こった金融恐慌の時である。
この恐慌は、当時の片岡蔵相が東京渡辺銀行が倒産するという「失言」により連鎖的に中小銀行への取り付け騒ぎが起こり、鈴木商店や台湾銀行までが休業に追い込まれた。
急遽高橋是清が蔵相に就任(3度目)し、片面の200円札を刷らせて市中銀行に積んで騒動を収めたのは有名だが、そこで井上準之助も2度目の日銀総裁として高橋と協力して恐慌の処理にあたっている。
井上は、騒動が鎮静するやすぐに総裁を辞任している。
わずか1年あまりの就任期間は短すぎて当時は謎とされたが、池田によると舞台裏は以下のようなものであった。
当時井上が私のところにきて、「高橋さんからもう一遍総裁になって、あの補償の貸方をやってくれといわれたが、僕は二度出てやるのは嫌だが、君はどう思うか?」と相談にきたので、その当時銀行の仲間では、「井上が出てやらなければならん、土方では駄目だ」といっていた場合でもあり、私は井上にその空気を話し彼の出てくることを希望した。井上は、「それでは永いことは嫌だから一年やろう」ということで別れた。(中略)井上が出てからちょうど1年目に私のところにやってきて、「君が一年やれというから嫌だったけれども、僕は出たが、だいたい目鼻もついたから辞める。出る時に相談した関係からちょっと挨拶にきた」といって、それで辞めたのです。(『財界回顧』166ページ)
井上と池田の信頼関係がよく分かるエピソードである。
2つ目が、この2年後の金解禁前夜における出来事である。
井上が解禁のタイミングを池田に相談している。
この年(1929年、昭和4)に池田はほぼ1年間ヨーロッパとアメリカを旅行して各国の首脳や銀行家に会っている。
アメリカではモルガン商会のラモント、シティバンク頭取のミッチェル、フランスのポワンカレ蔵相、イギリスのミッドランド銀行頭取マッケンナ、といった顔ぶれである。
池田自身の言葉では「私はベルリン、ロンドン、パリー、ニューヨーク、・・主たるところを渡り歩いたが、政治家には会わないという建前だから誰にも会わない。しかし銀行家にはことごとく会っておる」(『財界回顧』87ページ)となる。
その帰国後のことである。
私は昭和4年の11月に帰ってきました。帰って間もなく蔵相の井上準之助がきて、・・「実は君が帰ってくるのを待っていた。ヨーロッパ、アメリカでは日本の金解禁をどう思っておるのか?欧米の話を聞いてから、いつから公布しようと思っていた」といったから「アメリカやイギリスではあまり問題にしていない、ただマッケンナ氏はこれこれの意見だ」・・と今の話をしてやって、「またニューヨークでラモント氏に会ったら、政府がニューヨークの銀行にクレジットを用意して金流出の準備をしておけば解禁しても差し支えないだろうという意見であった」と紹介しておいて、「日本で金解禁をすれば我々銀行は援助する」ということを話して、翌日か翌々日に、来季の一月からやるということを決めたのが当時の事実です。(『財界回顧』に82ページ)
このように、池田は当時の政策決定に対して、表には立たないが重要な役割を果たしていたのである。
金解禁の直前で、池田は主要国の銀行家や金融家の事情に通じていた。
池田は回顧録のなかで知らないふりをしているが、この時点で金解禁に対してモルガン商会とは異なる動きをとることになるシティバンクの頭取ミッチェルとも会っているのである。
だから池田は解禁後の動きを予期したうえで、井上に対して解禁を勧めたと考えることができる。
モルガン商会のラモントは井上の金解禁に賛成すると表明している。
これは吉野の『円とドル』に記述されているが、日本銀行の公式記録である『日本銀行百年史』のなかにラモントが金解禁に際して必要なカネはいざとなったら貸すことを明言していたという。
だから、池田はアメリカでモルガンと対立する勢力と結びついていたのである。
その人物が、オーウェン・D・ヤング(1847〜1962年)というアメリカ実業家である。
つづく
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【参考文献】『日銀 円の王国』吉田祐二著(学研)
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