総理大臣のいない国家、それが日本!!(憲法夜話)⑨
明治憲法に総理大臣なし?
戦前の内閣総理大臣は、憲法にその地位の根拠を持たなかった。
いや、明治憲法には内閣という語すらもなかった。
あるのは国務大臣に関する以下の条文だけである。
大日本帝国憲法第55条 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ズ。凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス。
この規定からもうかがえるように、明治憲法では総理大臣とヒラ大臣の区別すらないし、その大臣が集まって内閣を構成するという規定もない。
ところが実際には、総理大臣を長とする内閣が組織されていた。
これはいったい、いかなることか?
奈良朝や平安朝の時代、つまり律令政治が実際に行われていた時代、「令外(りょうげ)の官」と呼ばれる一群の役職があった。
令外とは「律令の規定には記載されない」という意味で、その中には関白、摂政、内大臣、征夷大将軍などが含まれる。
これらの役職は実質的には権力を持ってはいたが、その実、法的根拠がなかったのである。
戦前の総理大臣も、憲法の規定には載っていないわけだから「憲外の官」ということになるだろうか?
戦前、内閣総理大臣の法的根拠は、憲法より一段下の内閣官制によって、かろうじて支えられていた。
学校教科書などでは「明治憲法はドイツやプロイセンの憲法を下敷きにして、伊藤博文が作った」と書いてあるが、これはとんでもない間違いである。
いかに日本の教科書執筆者たちが不勉強であるかを示す一証左である。
自由民権運動の高まりを受けて、明治政府は明治14年(1881)、10年後に国会を創設するという約束をする。
それを受けて、伊藤博文は翌年渡欧して、憲法事情を調査する。
その時、新興のドイツ帝国で帝国宰相ビスマルクから憲法学者のグナイストを紹介された。
ここまでは歴史事実である。
しかし、そこで伊藤博文がプロイセンやドイツの憲法をお手本に、大日本帝国憲法を起草したかと言えば、それはまったくの間違いである。
というのも、首相の規定一つ採ってみても、当時のドイツ憲法とは大違いである。
そもそも、この頃のドイツでは、行政権は帝国宰相に属していて、帝国宰相の他はヒラ大臣すら存在しない。
内閣はあっても、そのメンバーは宰相意外、すべて「セレクタリー」つまり長官(行政長官)であって、宰相の下働きにすぎない。
アメリカにおける大統領と長官との関係にきわめて似ているのです。
もし、伊藤がドイツ憲法などを真似していたとしたら、こうした制度がそっくり明治憲法に入っていなければおかしい。
ちなみに、伊藤はドイツを訪問する前にイギリスに行ったが、そのイギリスでも総理大臣の権限はきわめて大きい。
英国の首相の始まりは、18世紀のウォールポールからと言われているが、このウォールポールの正式な肩書きは「大蔵総裁(First Lord of Treasury)」だった。
現在、イギリスの首相は「プライム・ミニスター(Prime Minister)」というが、この言葉は大臣筆頭といった意味で、大蔵総裁にしてもプライム・ミニスターにしても、帝国宰相ほど偉そうではない。
ちなみにプライム・ミニスターの始まりは19世紀のディズレリーであり、その名称が正式になったのは彼の次からである。
しかし、名前は軽くてもイギリスでも総理大臣には絶対の権限がある。
国王の信任を受けている首相は自分の子分であるヒラ大臣を自由自在に任命したりクビにしたりすることができる。
イギリスとドイツは政治体制も、その沿革もまったく異なる国家だが、首相の権限がきわめて大きい点では共通である。
さらにアメリカでは、もちろん大統領が行政に関するすべての権限を持っている。
大統領の下には行政長官(secretary)がいるが、行政長官は文字どおりの「セクレタリ」(官僚)であって行政権力に関して何の権限も持たない。
たとえば、南北戦争のときリンカーンが重大事の決定のため、七人の閣僚を集めて会議を開いたことがある。
このとき、全閣僚はリンカーンに反対意見を述べた。
するとリンカーンは最後に「では、この件は1対7で可決された」と冗談交じりに言ったという。
たとえ全閣僚が反対していても、自分の信じたことを行なうのが大統領なのである。
つづく
【参考文献】『日本国憲法の問題点』小室直樹著 (集英社)
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