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戦前の日銀を支配したのはロックフェラーだ②

バーナンキの告白・・『密教』としての信用量のコントロール

バーナンキは、このフリードマンの研究をもとにして詳細な実証研究を行ない、検証の結果、それが正しかったと論じた。

バーナンキは、フリードマンの拠点であるシカゴ大学にて「ミルトン・フリードマンの90歳の誕生日を祝して」という題の講演を行なっている。

その内容は、『リフレと金融政策』に収められている。

フリードマンが大恐慌の研究に用いたのは、マネーサプライを中心とする「貨幣的分析」であった。

一方で、バーナンキが用いたのはマネーではなく「信用」およびその伝達方法などの「非ー貨幣的」な分析方法であった。

それならば両者の考えは対立するのかというと、そんなことはないと本人が述べている。

銀行破綻の非貨幣的な影響についての私の主張はフリードマンとシュワルツの説明に対する装飾的な追加にすぎません。彼らの分析の基本論調と決して矛盾するものではないのです。(『リフレと金融政策』)111ページ)

このことは、中央銀行の表面的な金融政策ツールである「マネーサプライ」と、表面には出ない「信用」コントロールについて、両者の可能性を述べたものとみることができる。

つまり、中央銀行は政策ツールとして“顕教”としてのマネーサプライの調節つまり量的緩和(緊縮)政策と、“密教”としての信用量のコントロールの両方が使用できると述べているのである。

だから、バーナンキは通常のマネタリスト政策であるマネーサプライ(通貨供給量)のほかに、信用(クレジット)を直接コントロールする中央銀行の“秘儀”をしっかりと理解しているのである。 

バーナンキのフリードマン讃歌の公演は、以下の言葉をもって終わっている。

講演を終えるにあたり、FRBの公式代表という私の立場を少しばかり濫用したいと存じます。ミルトンとアンナに申し上げます。大恐慌についてです。あなた方は正しい。我々がこれを引き起こしたのであり、大変残念に思っております。しかしお二人のおかげで我々は二度と同じ過ちは繰り返しません。(『リフレと金融政策』114ページ)

バーナンキは、FRB関係者として(講演当時は理事)、1929年大恐慌の要員がFRBにあることをはっきりと認めているのです。

FRBの経済失策によって、1929年恐慌のような大恐慌になることを認めているのである。

ということは、FRBが強大な権限を持っていることは疑いがない。

しかし、それは本当に「失策」であったのかどうか?

本当は、1929年恐慌もまた、中央銀行による意図的な「政策」であったのだ。

その背景には、まず当時の金融支配者たちの勢力争い(モルガン財閥対ロックフェラー財閥)があり、さらにはアメリカの対外戦争のための準備であったとみることができる。

不況を吹き飛ばすには、戦争という“公共事業”こそが、支配者たちにとって一番効率的な手段であるのだ。

真珠湾攻撃を口実に、第二次世界大戦に参戦した成果に比べれば、「ニュー・ディール」政策などは、そレほど効果的なものではなかった。

モルガン家

一世を風靡した「金融王」ジョン・ピアモント・モルガンが1913年に亡くなってから、モルガン家は長男のジャック・モルガンが継いでいたが、ジャックは父親に似てなく凡庸な男だったようだ。

モルガン財閥の実際の采配はモルガン家の大番頭であるトマス・ラモント(1870〜1948年)がふるっていた。

当時はまだジョン・ピアント・モルガンの威光が残っており、世界の金融の中心はモルガン財閥の手にあると誰もがそう思っていた。

そのモルガン死後の1920年代までの状況はそんな感じであった。

ラモントは、1933年にルーズヴェルトが大統領に就任する際には、モルガン家とルーズヴェルトは仲良くやっていけると考えていた。

金融史家のロン・チャーナウによる、全米図書賞を受賞した『モルガン家The House of Morgan』(日経ビジネス文庫)には、「ラモントも、東65丁目通りのFDR邸を一時借りた関係からよく知っていて、大統領就任以前から電話を掛けたり、『親愛なるフランク』調の手紙をせっせと書きまくった」(上巻 556ページ)という。

しかし、ルーズヴェルト大統領は就任するや、銀行を1週間強制的に閉鎖させて、銀行をみずからの命令に従わせた。

この一撃はモルガン商会には青天の霹靂であっただろう。

この銀行の閉鎖は「バンク・ホリデー」と呼ばれた。

実質は銀行を強制的に閉鎖させたのだから、これは金融統制政策である。

しかし、意外なことに、それを「バンク・ホリデー(銀行休日)」となんとなく前向きなイメージに言い換えることにより、マイナスのイメージを払拭したのはルーズヴェルトが最初であるという。

ルーズヴェルトはイメージ戦略に長けた政治家である。

彼の「ニュー・ディール New Deal」は、叔父にあたるセオドア・ルーズヴェルト大統領の「スクェアー・ディール」や、ウィルソン大統領の「ニュー・フリーダム」といった政権標語を真似て付けられたが、彼はそこにさまざまな意味を込めたのである。

金本位制の停止

さらに、ルーズヴェルト政権は金本位制の停止へと先手を打つ。

この金本位制停止はのちにモルガン家にとって不利となるのだが、ラモントはその意図に当初は気づかずに賛成している。

チャーナウの『モルガン家』には「モルガン財閥は、ローズヴェルトによる同年4月の金本位制停止措置を賞賛するという偏接行為を犯した」(上巻561ページ)と記している。

金本位制こそ、19世紀を通じて経済の安定化の礎であり、モルガン家が勃興したときの後援者であるロンドンのロスチャイルド家の中心であった。

第一次世界大戦後、各国は経済状態の悪化により金本位制から離脱したが、あくまでも暫定措置であり、経済が安定すると再び金本位制に復帰している(アメリカは1919年に復帰)。

その金本位制をルーズヴェルトは再び停止したのだ。

つづく

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【参考文献】『日銀 円の王国』吉田祐二著(学研)

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