我らが師カミュはクールではないがそれがどうした(聖闘士星矢)
水瓶座のカミュがクールなのは顔面と技だけ、というのは聖闘士星矢ファンなら誰でも知っている。知らないのは氷河くらいなものである。ほとんど意識を失っていたため見ていなかっただろうが、
めっっっちゃあわててたよあんたの師匠……ぜんぜん自分の立場貫いてなかったよ……
のちに海の底にて、隠し弟子(違う)のアイザックがはっきり言ってくれる。
「カミュは敵に対してクールになれと教えながら結局自分自身もクールに徹しきれなかった」。
全くその通り。ようやく冷静な人間が出てきたな。
しかし、アイザックがこれをもって「そんな男など師ではない」と非難するのはちょーっと的外れではなかろうか。
そもそもカミュは、自分がクールな人間である、とは一度も言っていない(はずだ)。「クールに徹する」ことを理想として掲げ、弟子たちにも口酸っぱく教えていただけで。
「クールたれ」と繰り返し言うのは、自分がクールでないことをわかっていたからである。
老子(老師じゃないよ)曰く、「大道廃れて仁義あり」。仁義なんて言葉がはやるのはそれが世の中にないからである、という話と同じようなものだ。
英語の”want”「欲する」の裏の意味は「欠いている」である。最初から持っているものを欲しがる人はいない。持っていないから欲するのだ。
絶対零度を目指しながらも到達しなかった我らが師カミュは、自分がクールとは程遠いこともおそらくわかっていた。痛いほど。
「先生は教えてたことを自分でもできてなかったじゃないか」というアイザックの非難はいかにも子どもっぽい。大人は「教えることと自分が実行できることは別のこと」だと知っている。
そもそもカミュの言う「クール」とは? どんな敵を前にしても恐れることなく、私情に流されず粛々と己の役割を果たす、くらいのことだろうか。
カミュが貫きたかった自分の立場…それは、「十二宮を守る黄金聖闘士」、だったのだろう。その先の、教皇が善か悪か、は自分が考えるべきことじゃない、くらいに思ってたかもしれない。(サガおまえこの野郎あやまったか!?)
実際のところ、我らが師カミュは勝手に持ち場から移動して(けっこうな長距離)、私情で氷河とのタイマンを選び(星矢と瞬は無傷で通すんかい!)、私情で氷河の目をさまさせようとし(いくらでもとどめさすチャンスあったろ!?)、私情で実質稽古をつけ(あれは修行の延長)、…あれっクールどこいった私情しかないやん
カミュは「師匠」と「宝瓶宮を守る聖闘士」の2つの役割の間で板挟みになってしまった。「目をさませ氷河!」はそのジレンマが最高潮に達した名シーンである。自分の心にウソがつけないタイプでもあり、仕事(=氷河を殺す)をしようとしながらも結局は氷河を助ける道を(無意識に?)選んでしまう。あの場面、本人も自分が本当のところどうしたいのかわかっていなかったのではないか、と私は疑っている。
周りが求める役割を演じようとする生真面目さがあるため、複数の役割で目的が矛盾してしまったときに悲劇が起こった。宝瓶宮での混乱はカミュの人間らしさの発露であり、私が愛するのも彼の不完全さ、とても永久氷壁にはたとえられない心の揺らぎ、あるいは未熟さなのである。