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note110本目 Ego sum panis vivus 私は生けるパン(Palestrina)

先日、私の通う教会で実に3年半ぶりの聖餐式が行われた。
聖餐式 “Holy Communion”。
プロテスタントでは洗礼式 “Baptism” と並ぶ2大典礼だ。
カトリックでは「聖体拝領」と呼ぶ。
 
(※中途半端に宗教的な記事。
要は↓↓を聞いてほしいだけ。
読まなくていいので聞くだけ聞いてください↓↓)

(※宗教チックな話はちょっと……という方は
うちの王子様を見ていってください↓↓)


聖餐式のやり方(※うちの教会では)

教会ごとにやり方は様々だが、うちでは下記の要領で行われていた。
〇1センチ×1センチ大に切られた食パン
〇おちょこより小さいグラスに入ったぶどう液

これらがそれぞれ専用のお盆に載っており、係が10人くらいで各列を回って配る。
 
(※パンはおそらくサンドイッチ用のもの。「耳」は見たことがないので)
(※うちはノンアルコールな教会なのでぶどう「酒」ではなく、ぶどう「ジュース」。
この栄えあるジュースは「ウェルチ」であると以前聞いたことがある)
 
パンと葡萄酒を分ける儀式であり、飲食そのものなのでコロナ禍で行えないでいた。
 
今回、新たな方式がとられ、各自が前に出て牧師からパンを、副牧師からぶどう液のグラスを受け取る形で執行された。
まあ時間がかかった。200人とかいるんで。
また、なにぶん新システムなので集中できたかは怪しい。私はできてなかった。
 
その日の説教は聖餐式をイエスが定めた箇所からだったのだが、
聞きながら、ある曲を思い出していた。
 
Ego sum panis vivus
私がカトリックの大学に在籍していたころ、聖歌隊で歌った、
パレストリーナのポリフォニー。
人生で初めて出会った多声音楽だ。

Ego sum panis vivus —その神秘の歌詞

Ego sum panis vivus
わたしは生けるパンである
Patres vestri manducaverunt manna in deserto,
あなたがたの父祖は砂漠でマナを食べたが
et mortui sunt
死んでしまった
Hic est panis de coelo descendens:
これは天からくだってきたパンであり
si quis ex ipso manducaverit, non morietur
これを食べる者は死ぬことがない

ラテン語はよく知らないので厳密なところはわからないが、
新約聖書ヨハネの福音書6章48~50節をまんま歌にした曲。
(だいたい6章22~59節あたりがひとまとまりのお話し。前後を知りたい方のご参考まで)
 
清流のような音楽。
この先は読まなくてもいいので(2度目)、ぜひ聞いてみていただきたい。

楽譜付き↓

「聖餐式」とは何か 素人がざっくり解説

最初に高らかにテーマが歌われる。
Ego sum panis vivus
わたしは生けるパンである
 
……いきなり謎めいた一行だ。
背景を知らないと目が点になるよね。アヴァンギャルドかってなるよね。
 
ここで「わたし」とはイエス・キリストのこと。
十字架につけられる直前、弟子たちにパンをさき、ぶどう酒を分けた。
聖餐式、いや「聖体拝領」の方がストレートに文字に表れているか、
これは人類の罪を贖うキリストの、十字架上でさかれた体と流された血をいただく、という儀式である。
そんな血なまぐさい儀式を、カトリックだと毎回のミサで行っている。
というか、ミサの中心が聖体拝領なのだ。
プロテスタントだと毎回はやらないところが多いのだろうが(自分の教会しかわからないが)、
それでもとっても大事な聖礼典であることに変わりはない。

↑これは米国聖公会の様子。聖公会はプロテスタントの一派だが、実質はむしろカトリックらしい。
ミサ中、Ego sum panis vivusを聖歌隊が歌うなか、人々がぞろぞろ前に進み出て聖体を受け取る様子が見られる。

「マナ」を食べても……荒野を渡る風

曲の話に戻ろう。
Patres vestri manducaverunt manna in deserto,
あなたがたの父祖は砂漠でマナを食べたが
et mortui sunt
死んでしまった

 
マナ、これはエジプトを脱出したイスラエル民族が荒野で食べた食物。
エジプトの奴隷生活を逃れたものの、見渡す限りめっちゃ砂漠で食べ物もないじゃん、なんだよどうしてくれんだよ、と文句たらたらだったイスラエル人に、毎朝神様がくださっていたパン(の粉)である。
(ちなみに、マナの取り扱いは難しい。「翌朝までとっておくな」というお達しにもかかわらず残しておいたら虫がわいて超臭くなった、という記述も……)
 
砂漠でマナを食べた先祖たちはみな結局死んだ。
 
このmortui sunt「死んでしまった」というところが好き。
音楽も一度死を迎えそうになるのが、なんとも言えない味わい。
4声それぞれが静かに下降し、地に落ちる。
テナーの細かい動きは、荒れ野を吹きわたる風のようだ。
生きているものはひとりもいない。
音楽は止まりかける――
 

死から生へ―panis de coelo

そこへ、まさに天から音が降ってくる。
 
Hic est panis de coelo descendens:
これは天からくだってきたパンである

 
de coelo 天から
descendens くだってきた
この部分は各声部で同じ下降音型を受け渡しあい、
パン=キリストが天からくだってくる様を見事に描き出す。
 
si quis ex ipso manducaverit, non morietur
これを食べる者は死ぬことがない

 
最後の「死なない」non morieturは4声で合計17回繰り返す。
(※茶ぶどう調べ)
聞いていただければわかるが、波が次から次へと寄せてくるようだ。
Non morietur. Non morietu. Non morietur...
 
「死なない」ってどゆこと? というのは意外と説明が難しい。
ちゃんとした教義の話は私の手には余るので本職の牧師さん・神父さんにお任せしたい。

(今回書いてみて、そして読み直して思ったのは、
私はあまりにもずっとこれらのお話しを聞いて/読んできたので普通にわかるけど、
初めてこういうのにふれたら「????」だらけだろうなってこと。
まともに説明できなくて申し訳ない)

とにかく、すべてが浄化されそうな曲。
キリスト教音楽の専門家なら、この曲の秘密とかもっと色々わかるのだろうが……あくまで個人的な思い入れのお話しでした。

 
↓復活祭 This joyful Eastertideの記事↓

 
↓もいっこラテン語ポリフォニー聖歌↓

 

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