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仏教ってなに? 応用編ー7

苦の起源と菩薩行の必然

 ここで、先に進む前に、もう一度基本的な事をもう少しだけ突っ込んで確認しておきたいと思います。先の応用編5-3で少しだけ触れましたが、何故、宮沢賢治が本当の意味での釈尊の思想を深く理解していたと思うかについての説明もしておきたいとも思います。
 また、応用編3と4でちょっと触れましたが、何故、仏陀になるには菩薩行が必要で、それにはとんでもなく長い期間が必要になるのかについても掘り下げてみたいと思います。
 先ずは、「苦」について考えて見たいと思います。今回は一般的な説明よりもうちょっと踏み込んだ考察をしてみたいと思います。
 人間は他の存在への慈しみの心というものを紛れもなく確かに持っています。しかし、そう言う気持ちとは裏腹に「自分」と言うものの存在を存続させていくためには絶えず他者を犠牲にして行かざるを得ません。
 鶏や豚や牛が可哀想だと思っても「自分」が生きて行く為には彼らを犠牲にせざるを得ません。たとえ、菜食にしても本来米や豆などの野菜も彼ら自身の子孫の為のもので、それを人間が横取りしている訳だから本質的には彼らを犠牲にしている事には変わりがありません。
 いくら口で愛だの慈悲だの思いやりだのと言ってもみんなその舌の根も乾かぬうちに腹が減ったと言って平気で他の生き物を犠牲にしています。この根源的矛盾に気が付かないのは、単に無神経で図々しく、偽善的かつ自己中心的で他者への思いやりがないからだと言われれば誰も反論できないと思います。
 もし、本当に他者への思いやりがあればすぐにこの事実に気付くはずだし、それを気付いた人にとってはこの様な根源的矛盾はまさに逃げ場のない耐え切れないような苦しみ以外の何物でもないはずです。
 そして、この苦しみは他者への思いやりの度合いに比例するのだと思います。思いやりが最大限の人は苦しみも最大のはずです。
 思いやりが全然ない人は苦しみも全然なく、臆面もなく自分勝手な幸せを満喫で出来るはずです。
 仏教で言う所の苦の起源はまさにこの根源的矛盾に在り、この根源的矛盾を抜きに苦の原因を語ることは、そのような感性を持ち合わせていない人にも分かるようにするための方便に過ぎないともいえます。
 従来のお決まりのご説法の様に、欲望があるから苦しみがあり欲望をなくせば苦しみがなくなるという話も、自己の存続を可能にさせる欲望と言うものが上記のような他者への思いやりの気持ちと根源的に矛盾するもので、それが絶えがたい葛藤として生存苦の原因となると解釈して初めて本当に避けることの出来ない根源的な苦しみとしての意味をなすのであって、それ以外の欲望と苦しみの関係のたとえ(愛別離苦・怨憎会苦)などの話は一般向けに解りやすくしただけであって、本当にその程度の苦しみから逃れるために仏道が在る訳ではないと思います。
 仏教の欲望と苦の関係は、一般に誤解されているような、自分の心の平安ばかりを願う贅沢な暇人がその心の平安が乱されないように欲望を捨てた方が良いと言っているなどという暢気で贅沢な趣味的選択の話ではないのであります。
 他者への思いやりを持つ人なら誰でも感じるはずの根源的矛盾とそれに伴う逃げ場のない苦しみを痛感し、その状態を何とかしようと本気で思った人が歩むのが仏道なのだと言えます。
 そう言う事を自覚できる人間としての義務であり、逆にいえば無神経で図々しく偽善的かつ自己中心的で他者への思いやりがない人以外は、その方向性を選択せざるを得ないような道なのだと思います。
 では、具体的には何が仏道かと言うと、仏道を歩み始める前の普通の状態というのは、上記の様に他者を犠牲にして自己の存続を続けるという言うものですが、この状態を続ける限りその事実と他者への思いやりという人間的な気持ちの根源的矛盾に苦しみ続けなければ成りません。
 それを避けようとしてたとえ自殺しても残念ながら「自分」と言う妄想観念が在る限りその求心的エネルギーによって再びこの世に生まれ変わり同じように他者を犠牲にする行為を繰り返すのです。
 したがって、この「自分」と言う妄想観念がある限りは自殺しても自殺しても再びこの世に生まれ変わってくるので何の解決にもならない訳です。
 しかし、この「自分」と言う妄想観念は一昼夜にして出来きあがったものではなく、原始的生物としての進化と輪廻の当初から現在に至るまで繰り返し行われてきた自己存続の為の数限りない利己的行為の集積によって創出補強されている為、それを償い切って存続エネルギーを中和させる為には、自分がこれまで積み重ねてきた「数限りない利己的行為」とその犠牲になった他者に対する膨大な数の「借り」を全部返して、借金をチャラにしなければ成らないものと思われます。
 つまり、利己的カルマと利他的カルマの収支バランスがプラマイゼロに成らなければならない訳です。
 その為には自分がこれまで進化の途上で犠牲にしてきた全ての存在に対して同じ数だけ利他行をしなければ成りません。
 利他行とは他者の悟りと幸福に貢献することによってその他者に対する過去からの借金を返す事です。これを仏教では一般的に菩薩行と呼び、この修行を成し遂げたもののみが仏陀になれるとされています。
 この菩薩行の過程で他者に対する思いやりとその現われとしての行動力を養い、次第に「自己」と「他者」の違いを意識しない様な心境になり、他者の喜び苦しみを自分の事として感じられるようになり、やがては自他の分別を超えた幸福感をもてるようになります。
 そして、最終的に「自分」と言う妄想観念から完全に開放され自他一体及び全存在との完全なる一体感に到達した状態を仏陀と言うのだと思います。
 そこにおいて初めて何にも制限されない、完全なる思いやり・慈悲が成就されるのだと思います。全てはそのために(完全なる思いやり・慈悲を成就する為)に始まったからです。

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