仏教ってなに? 応用編ー6-2
「空理・空論」ではない「空」の話 - 2
では、「空」とは一体どのようなものの見方なのかを、ここで改めて詳しく見てみたいと思います。先程の例は、「椅子」であったり人間であったり、様々な要素が複雑に組み合わされたものでしたので、それらの組み合わせが概念であるというのは分かるが、もっと基本的な要素自体は実在するのではないかと思われる方もいるかもしれません。
では、「水」というものを例に挙げて考えてみましょう。実体論の立場の人は、水という性質なり本質を持った何かが実在すると考えます。しかし、今でこそ、常識になっていますが「水」はH2Oという水素原子2つと酸素原子1つの組み合わせからなる水の分子から構成されているということがわかっています。つまり、「水」という不変の同一性をもった実在があるわけではなく、水素原子2つと酸素原子1つの組み合わせを「因」とすると、それらの組み合わせの「因」が、摂氏1℃から99℃という環境条件(縁)によって現す姿を我々人類は「水」と呼んでいるだけなのです。つまり「水」というものは、水素原子と酸素原子との特定の関係性(因)が、特定の温度環境(縁)との関係性によって現した一つの様態に過ぎず、それらの関係性の組み合わせが現した姿以外に「水」という実在があるわけではありません。
その証拠に、温度環境がO℃以下になれば、たちまち個体の氷になりますし、100℃以上になれば気体になって姿も見えなくなってしまいます。つまり、H2Oという水素と酸素を「因」とする特定の関係性が「水」と我々が名づける様態で居られるのは、ごく限られた条件(縁)の元(1℃~99℃)であり、同じ「因」でも「縁」が変われば表す姿は変わるということです。
このように、この世のすべてのものは因と縁との関わりによって姿を現し、そのような因と縁との組み合わせが変われば現れ方も変わるというようなものには、本来固定的な実体も本性もありえず、「空」であるとされるのです。
では、水素原子や酸素原子は実在するだろう思われるかもしれませんが、それらは陽子・中性子・電子など素粒子の組み合わせです。その素粒子もクオークの組み合わせで、クオークも何らかの振動体の相互の関係性によってその性質を現すとされています。しかも、その振動体というものはもはや物ではなく、一種のエネルギーの塊のようなものでそれらの相互の関係性によってさまざま性質が現れると言うのは、正に存在するのは関係性のみであるという「空」のものの見方が、現代物理学によって証明されたようなものです。
以上ずっと抽象的な話が続きましたので、この辺でいよいよ上記の抽象的な「空」の話を我々の実生活に当てはめて考えてみたいと思います。
ここにAさんという人がいます。Bさんという女性と付き合っています。つまり、AさんはBさんにとっての「彼氏」です。BさんはAさんにとっての「彼女」です。しかし、やがて、関係がこじれて、BさんはAさんと別れることにしました。しかし、Aさんは納得せず、Bさんを執拗に追い掛け回します。かつてBさんにとって、Aさんは「愛すべき彼氏」だったのが今や恐るべき「ストーカー」であり、ほとんど「犯罪者」です。所が、Aさんは実家では年老いた両親を介護しており、ご両親にとってAさんは「最高に親孝行な息子」です。Aさんは会社では「大変優秀な社員」で、上司にとっては「従順な部下」で、部下にとっては「最悪な上司」で、仲のいい同僚にとっては「仲間」であり、仲の悪い同僚にとっては「最大の敵」でした。
では、どれが本当のAさんなのでしょうか?実はどれも本当のAさんなのです。Aさん(因)と他の人との関係性(縁)によって、同じAさんが「犯罪者」になったり、「最高に親孝行な息子」になったり「大変優秀な社員」になったり「従順な部下」になったり「最悪な上司」になったり「仲間」になったり「最大の敵」になったりするのです。
Aさん自体は本来「空」なのですが、Aさんと他の人との関係性によってその意味付けが変わってくるということです。
意味付けを変えたかったら関係性を変えればよいということです。あるいは意味づけを変えることによって関係性が変わることもあるかもしれません。
Aさんが本質的に「悪人」であるなら、Aさんは誰にとっても「悪人」であるはずで、永遠に「悪人」であるはずです。誰かにとって「最高にすばらしい」人であるはずもありません。しかし、現実には相手によって全く違った姿を示し、意味づけも全く違ったものになるということです。
このように、物事にも人にも不変の本性なり本質などというもの無く、あくまで自分とその人あるいはその物事との関係性が存在するだけで、その関係性に自分がどのような意味づけをするのかは全くの自分の自由であるというのが「空」というものの見方です。
この「空」というものの見方をより実生活に役立つようにするには、それを自分の周りの実際の人間関係に当てはめてみるといいかもしれません。
普通私達の日常生活のおいては、色んな人間関係が有ります。良い人もいれば意地の悪い人もいるし、敵もいれば味方もいる。しかし、本当は、全ての人も出来事もあくまで「空」であって本来特定の意味は持っていません。「良い人」も「意地の悪い人」も「敵」も「味方」も「悪い出来事」も「いい出来事」も、全て自分との関係性においてそう言う風に見えるだけで、本来はどんな意味付けをしようが全くの自由なはずでした。
例えば、自分の悪口を言ったりあら捜しをして足をひっぱったりする人がいれば、普通多くの人は、その人に対して「敵」という意味付けをします。そして、一旦、敵という意味付けをしたら、正にその人のやる事はすべてネガティブな敵対行為そのものとしか思えなくなります。そして、その人を憎み、憎んでもどうにもならないしストレスがたまり、自分自身が大いに苦しみます。
しかし、自分がいくら憎んでも相手は痛くも痒くもありません。だからこそ、余計に憎さが増幅していきます。この様に、本来どんな意味付けをしても自由であるはずの相手に対して、勝手に自分で「敵」だと決めて、その結果として自分自身が多いに苦しむ事に成る訳です。まさに、一人相撲です。
それよりも、敵という意味付けをする代わりに、「あの人のお陰で、自分の足らないところが気付けるのだ、自分の行動に気をつけられるようになる。考えて見れば、恩人なのだ。」と言う風にポジティブな意味付けをすれば、もうその人が何をしようが、全て自分の為に成る事なので、あら捜しをされればされる程自分は成長できるし、悪口を言われれば言われるほど、自分が他の人にどう思われているか気付けるのでどんどん自分が成長できます。
このように、相手のどんな行為も、自分のそれに対する意味付け次第でどうにでも受けとれる訳なので、嫌なものがあるのなら初めからそのような意味付けをしなければいい訳です。
とは言ってもこれはあくまで理屈上の話であって、人間は理屈通りに考えられるものではありません。「空」というものの見方で言えばそうなるということであって、実際にすぐ明日から180度違った意味づけができるかというとそうはいかない場合の方が多いのではないかと思います。
様々な原因(因)と条件(縁)によってできあがってしまった人間関係なので、先ずはそれがネガティブな展開の仕方をしてしまった理由を理解することが先決なのかもしれません。その為には、相手との充分な意思の疎通が必要不可欠になるでしょう。その上で、少しずつ相互の相手に対する意味づけの仕方が変化しはじめて、しだいに人間関係も改善していくと言うのが現実的な方法なのかも知れません。
いずれにしても、人間というものは、本来本質的に善人も悪人も立派な人も駄目な人もいません。皆、いろんな条件と関係性の中で時には善人でいられたり、悪人になってみたり、立派なこともしてみたり、どうしようもなく駄目な人間になったりするということです。
すべては、一瞬一瞬の選択と判断で変わります。ずっと周りから尊敬されていた人がある日突然電車の中で痴漢をして犯罪者になるかもしれませんし、同じその人が、その経験を機に心底心を入れ替えて再びより立派な人になったり、逆に指名手配の極悪人が子犬を助けようとして命を落としたり、アショカ王の様に一時は恐ろしく残虐な暴君として人々を震え上がらせた人が、後に改心して佛教を世界に広げるのに大きな貢献をしたりと、要するに人も物事も「無常」であり「無我」であり「空」なので、どんな思い込みも固定概念も当てはまらいということです。
だから、あの人は立派な人だとかあいつは駄目な奴だなんて言葉はせいぜい有効期限は1日ぐらいで、明日はどうなるか誰にも判りません。
これを、ネガティブに考えれば「誰も当てにならない」とも言えますが、ポジティブに考えると「どんな人でもよりよく成れる可能性はある」と言うことでもあります。
ということで、長々と回りくどい話をしてきましたが、端的に言えば、「空」というものの見方は「あらゆる固定概念・思い込み・こだわりから自分自身を解放するものの見方」であると言えるもかもしれません。
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