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「所有」から解放された人間は、台所に立つ。成長至上の直線世界から循環世界に軟着陸せよ

食の分野で活躍する人たちの「美しい食」を聞く連載企画の第2回は、「食べる通信」「ポケットマルシェ」の髙橋博之さんです。

髙橋さんは美食倶楽部の本間の前職のパートナー。この文章は、美食倶楽部スタート時にFacebookに投稿された応援メッセージを編集したものです。最後に追加で「髙橋博之の考えるこれからの“美しい食”とは?」についても寄稿いただきました。

【プロフィール】髙橋博之(たかはしひろゆき)/株式会社ポケットマルシェ代表取締役CEO、一般社団法人 日本食べる通信リーグ 代表理事。
岩手県花巻市生まれ。岩手県議会議員を2期務め、2011年岩手県知事選に出馬するも次点で落選し、政界引退。2013年、NPO法人東北開墾を立ち上げ、食べ物付き情報誌『東北食べる通信』を創刊し、編集長に就任。2014年、一般社団法人「日本食べる通信リーグ」を創設し、同モデルを日本全国、台湾の50地域へ展開。第1回日本サービス大賞地方創生大臣賞受賞。2016年、生産者と消費者を直接つなぐスマホアプリ「ポケットマルシェ」を開始。2018年、47都道府県を車座行脚する「平成の百姓一揆」を敢行。著書に、『だから、ぼくは農家をスターにする』(CCCメディアハウス)、『都市と地方をかきまぜる』(光文社新書)が、共著に『人口減少社会の未来学』(内田樹編、文藝春秋)がある。

自然と人間が疲弊する「直線世界」を生きる私たち

本来、食べるという日々の行為は、自然を文化に、そして自然の一部を私たちの肉体と魂に交換することを意味していた。

「カリスマシェフ監修の味です」などの聞こえの良い宣伝文句をまとった工業化した食べものを栄養補給よろしく食べること、背景を何も知らないまま食べることは、はかなく空疎な楽しみしかもたらさない。本当に心に残る食べものは、その背景にある物語が、食べる人を圧倒させるものなのである。

食べものの背景を知ることによってのみ深まるような食べることの喜びは、工業的食事では経験できない満足や感動を暮らしや人生に与えてくれる。それは、その背景にある物語の主人公である生産者や自然へのリスペクトにもつながる。

物質的な豊かさは拡大し続ける。そんなこれまでの成長至上主義的な『直線世界』とは、未来の成長のために今ある生を手段化する(犠牲にする)ことが礼讃される近代システムそのものであり(工業的食事はその副産物)、それはすなわち自然と人間のシステム化を意味した。直線世界では「自然資源」や「労働力」を循環世界から搾取し続けるしかないので、結果、自然と人間が疲弊していく。

台所は、内臓である。

何年か前に『東北食べる通信』で対談した京都大学の藤原辰史先生は、行き過ぎた資本主義は最終的には合法的なナチズムになる他ないと穏やかならぬ指摘をしていた。

第二次世界大戦下のドイツでは、絶滅収容所で強制労働させられた囚人は1日1皿のスープしか与えられず、最後は自らを食べ始め、骨と皮になっていった。つまり、人間の中に火も水もいらない最も効率のよい台所が埋め込まれたのだ。一方、台所仕事を無駄なくこなす主婦は、戦争を健康面から担う機械になるべきだとされ、台所の中に人間が埋め込まれた。こうして囚人も主婦も戦争のためにまったく逆の形で台所の合理化を強制させられのだと。

藤原先生は「どちらも、人間ではなくシステムを優先し、どちらも『食べること』という人類の基本的な文化行為をかぎりなく「栄養摂取」に近づけている」と表現し、近現代人が求めてきた機能主義の究極的な姿を見る。そして、今の世界はどうだろうと問いかける。

世界人口の8人にひとりが必要最低限の食事を食べられていない飢餓状態にありながらその多くが農業生産に従事させられ、さらにその貧困は飽食を謳歌する日本の足下にもじわりと忍び寄っている。一方で、時短料理を余儀なくされている共働き世帯をターゲットに台所が市場化し、企業がそこに最新の調理器具や調理家電を売りまくり、それらを買いそろえるためにさらに働き、ますます時短に追い詰められていく。ここでも、人間の中に組み込まれた台所と、台所の中に組み込まれた人間を認めざるを得ないと。

台所は人間の「外部器官」、つまり内臓である。なぜなら、人間は他の生物を食べて生きているわけだが、生食できるもの以外は、切ったり煮たり焼いたり蒸したりして食べるわけで、その意味で台所は人間の体外にある最初の消化器官ととらえることができる。同時に、台所は生態系のもっとも人間社会に近い中継地点ということになる。自然を加工し、その栄養を摂取する最終地点でありながら、体内から飛び出した人間の器官なのである。

そうした特性を有する台所に徹底的な合理化を追求し、ひたすらに機能的であろうとすることは、決して機能的ではない人間の「こころ」と「からだ」をも制御し、結果、人間性は疎外されることになる(生命はデータ処理であるという機械論的生命観を持つ科学者に言わせれば、「こころ」と「からだ」すらも機能的なものに過ぎないと主張するだろうが、生命はデータ処理ではない可能性については現段階の科学では排除されていない)。

美食倶楽部=キッチン・アズ・ア・サービス

地域差や個人的嗜好といった「曖昧さ」や「多様性」を排しながら、必須栄養素補給という大義名分の下で健康を崇める道具に成り果て、均質化されてきた台所。その無機質で窮屈な台所を家から外に切り出し、「快楽」としての食を、「官能」としての食を、「関係性」としての食を、「文化」としての食を、みんなでゆるりと楽しみながら取り戻そうぜ。そう、美食倶楽部は主張しているように聞こえる。平たく言えば、海や畑とつながった「公衆食堂」をつくろうぜと。そこにいろんな人が集まってくる。そして共に食べることを通じて、食べ物の背景の物語を味わいつつ、現代社会に巣食う食の問題について語り合い、人間にとって本当に豊かな食のあり方について考える。

この台所の部分的な外部化は、これから社会に広がっていく可能性がある。日本でも、若者がコンビニを冷蔵庫がわりに使うように、フルパッケージの「家」が機能ごとに外部化し、ノマディックな生き方を志向する人々が増えている。ソフトウェアに見られるモノをサービス化する『アズ・ア・サービス』も広がっているが、アムステルダムでは市にCTOを置き、まちづくりで展開しているという。「シティ・アズ・ア・サービス』。日本版美食倶楽部は、さながら『キッキン・アズ・ア・サービス』といったところか。

物や家の所有から解放された人間が生きるには、従来の所有社会で必要とされたほどのお金は必要とされない。となると、消費のための労働は減り、余暇の時間が生まれる。私たちは、未来にある救済や目的のための手段としての現在の空虚な《生》が、他者との交歓や自然との交感によって直接に充溢することを求め始めるだろう。例えば、社交や芸術、スポーツ、ボランティア、農、そして何よりも食である。直線世界から循環世界に軟着陸した食。そうして得られる幸福は、どんな大規模な資源の搾取も、どんな大規模な地球環境の汚染も破壊も必要としない。つまりは、永続する幸福である。日本版美食倶楽部のベクトルは、そこに向いている。

髙橋博之の考える「美しい食」


美食とは、細胞レベルの歓喜である。


人間は機械ではない。ところが今、栄養補給のみを目的とする車のガソリン給油のような工業的食事が広がっている。私たち人間は食べることを通じて、動植物などの生物を体の中に取り込む。食物として摂取した動植物の分子は、私たちの体に元々あった分子と置き換えられ、用済みになった分子は排泄される。だから私たちの体は3日前とは微妙に違うし、一年も経てばまったくの別人である。つまり食べることは分子のリレーであり、美食とは細胞を形成する新しい分子を迎え入れたことへの歓喜に他ならない。そして、その分子の素性を知ることは、さらなる大きな歓喜へとあなたを導くのは言うまでもない。

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