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悩むまめない

「悩む」という、主体的な行為

「悩む」という言葉について皆さんはどのようなイメージを持つでしょう。

それはネガティブなイメージですか。
ポジティブなイメージですか。

この言葉には、くよくよしたイメージとか、
物事を決められない弱々しいイメージもあります。

でも私はどちらかというとポジティブなイメージが先に浮かびます。
「悩む」ことには他の行為では得られない効用があると考えてきたからです。

又吉直樹さんの『夜を乗り越える』という本が好きで、
何度も読み返す箇所があります。

正解、不正解だけではなく、どうしようもない状況というものが存在することを知って欲しい。
世界は白と黒の二色ではなくグラデーションです。二択ではありません。二次元ですらありません。それを表現するために言葉があり、文学があります。

多分、ここの部分を読んだときの私は非常に共感し、感動したのでしょう。
ふせんが貼ってありました(笑)

人間はきっと、
左か右か、0か1か、白か黒か、
岐路に立って、どれかの道を選ぶしかないと思ったとき、
そしてそれが簡単ではないときに、
悩むという状態に入ります。

簡単でないときというのは、
その道の先に何があるか見えないとき、
つまり、分からないときです。

サーティワンアイスクリームに行き、
いつも食べている抹茶のフレーバーを選ぶのか、
それとも今日は期間限定の少し怪しい色のフレーバーを選んでみようか。
食べたことのないフレーバーは、
味が分かりませんから、不安なのです。
もっとも、サーティワンでは、
新しいフレーバーです、と言って店員さんがスプーン一口サイズの味見をさせてくれますし、それで買ってみようかとなったり。
買って、もしおいしくなかったとしても、
まぁ数百円の損でしかありません。
突拍子もなく身近な例を出してみました。
しょうもないようですが、これも人間の悩む姿の一つだと思います。

毎日アイスのフレーバー選びに悩んで暮らせるのならハッピーかもしれませんが、
人生には、数百円の損ではすまない、もっと大きな影響を持った選択肢に直面しなければならない場面が待っていると思います。

夢や目標がある場合。
それが達成されるかされないか、
本当にそれを目指すことが正しいのかどうか、ということを考え始めると、
その保証のなさ、答えのなさに気づいた後、
不安が押し寄せてきます。

人間にとって、
分からないという状態を続けることは、
とても怖く、苦しいことなのだと思います。

進学や就職のときは、
選択肢が多すぎて悩むということもあるでしょう。
就職活動では情報収集や業界研究が大事だと言われますが、インターンやOB・OG訪問というのは、サーティワンでいう一口スプーンの味見のようなものなのかもしれません。
全部は分からないけど、でも、多分こんな味なんだな、と折り合いをつけて、
最終的には一つを選ぶのですから、
人って凄い。

悩むというのは、確かに苦しい作業です。
いくつかの国語辞典で引いてみると、
【苦しむこと】【思い煩うこと】とありました。

ですが又吉さんは、この、
悩むという行為を肯定してくれています。

白はどちらで黒はどちらか、
分からないなりに悩むことは必要だと。
悩んで選んだ先で、
そもそも世界は二色ではなかったと、後から気づいたりもできる。

確かに私も、
その時は分からなくて苦しかったけど、
あの時こっちを選んで結果的に良かったなと思えることもあれば、
自分の考えていたことよりも全然違う世界があったんだと思うこともあります。
過去の選択に対する後悔の念に支配されることは、最近では少なくなりました。

きっと悩むという行為の先には、
“他の誰でもない自分が苦しんで選んだのだ”
という〈主体性〉が特典としてついてくるように思います。
悩んでは選び、悩んでは選びを繰り返すことは、“自分らしさ”を形作っていくことに繋がるような気がします。

「悩まない」という、自分の守り方

「悩む」のネガティブな面についても触れておきたいと思います。
「悩む」に、「苦しい」という字をつけて、「苦悩」という言葉があります。

なぜ私が「悩む」という言葉に拘り続けて考えてきたかと言えば、
それはやっぱり自分自身がずっと悩んで生きてきたからなのでした。

なぜ「悩む」のか。それは、端的に言えば私は思考する人間だからです。
なぜ「思考」するのか。それは、言葉を手に入れてしまったからです。

言葉を手に入れたからこのように今日も文章を書いています。
言葉があることによって曖昧だった刺激が明確になり、
本来モヤモヤしたものでしかない「心」を私や他者に伝えることができます。

だけど言葉というのは実はマイナス方向にも力を持っているもので、
小さな痛みを大きな痛みにすることもできてしまうのです。(恐ろしや)

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仕事でも何でもいいのですが、何かミスをしたとして。
ミスをしたことを「まぁいいや」と思える人もいれば、
それこそ“くよくよ”と考え続ける人もいます。

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これは私の苦しみの世界のイメージです(笑)
でも図にしてみたら、「ミスをした」という本来の痛みから発展して過去にいったり未来にいったりしてるのは「苦悩」の世界なんだということに気づきます。
「苦痛」より「苦悩」の方が大きいこともしょっちゅうです。
そして考えてみると、それは自分の言葉が作り出している世界であることが多いです。

もうこれはしょうがない。言葉ってそういう力があるし、
私は昔から言葉が頭の中で喋りまくっているタイプなので、この性格は今後も大きくは変わらないでしょう。

ただやっぱり苦悩ってしんどいし、続けてしまうと身体も蝕まれます。

なので私は、思考は思考としてそのまま喋らせておいて、
脇においておく、手放す、ということをよくします。

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思考することがダメなのではなく、
「思考」を「思考」と認め、距離を保てる「自分」を持っておくということです。
思考や感情との付き合い方の話です。
これはACT(アクセプタンス&コミットメントセラピー)における、「脱フュージョン」の考え方です。
フュージョンとは「融合」という意味で、『ドラゴンボール』を読んでいた人は悟天とトランクスが合体するところをイメージすると分かりやすいです。
認知的フュージョンとは自分と認知が融合してしまうこと、
上の例では「ミスをした自分はダメだ」という世界に入り込んでしまい、その思考が現実より優位になってしまうことです。
ドラゴンボールではゴテンクスはめっちゃ強かったですが、
悟天とトランクスは別々の存在なので、元に戻る必要があります。
「私は・・・だ」という思考が出てきたら、「私は・・・だ、と考えている」と足すだけで少し距離が置けるかもしれません(脱フュージョン)。

思考から距離を置いて不必要に「悩まない」ことで、自分で自分を苦しめずに済んだり、他のことに時間を割けたりするということはあります。

これを「思考するのやーめたっ」と捉えてしまうと、
思考の創造的な面も消してしまうし、極端に言えば反省もしない無計画な生き方になってしまうことも考えられます。

あくまで「思考」はするんだけど、それに苦しめられがちな人のために、
守り方の方法としてあって良いのではないかと私は考えます。

「悩めない」という状態もある?


先程、夢や目標がある場合を書きましたが、
夢や希望や理想の無い人だっています。
岐路に立つもなにも、道自体が無いように感じられる人は、
どうやって悩めばいいのか?

数年前の自分がそのような状態でした。
夢や目標や、取り組むべき問題がはっきりしていないと、
「悩みがない」ように周りからは見えるのかもしれません。
でも不思議と、自分の軸が無いように感じることが、苦しかったのです。

「悩む」・「悩まない」だけではなく、
「悩めない」という状態もあるのだと。

20年ほど前から、学生相談などの青年期心理臨床の場面で、
「悩めない学生」あるいは「悩めない青年」という言葉が使われるようになってきました。

心理化して「悩む」よりも、身体症状や行動に表すことで、内面と向き合うことを避けている、という文脈で語られることもあります。

ただ考えてみると、
「うまく言葉にできない」とか「感情をうまく認識できない」ということは、特に青年期だけに当てはまることではなく、
どの年代でも普通に起こりうることなのかもしれません。

「書く」ということに照らし合わせて考えてみると、

私自身、書けない時には、この「悩めない」という状態に入っていることがあります。
モヤモヤと感じていることがありそうだけど、言葉が見当たらない、言葉を探す気力が出てこない…というような疲れた状態です。
「悩まない」とは違って、「悩めない」状態では、問題が何かがそもそも自分でもよく分からないのです。

悩むまめないサイクル


結局、私は「悩む」「悩まない」「悩めない」の状態をいったりきたりしているんだな、と考えるようになりました。
これは心理学の本に書いてあるとかじゃなくて勝手に私が考えていることです。(え)

画像4

<悩むまめないモデル>(引用:俺)


「悩む」ことは良いのか、悪いのか、
ポジティブな行為なのかネガティブな行為なのかと結論づけるよりは、

私は悩んだり、悩まなかったり、悩めなかったりしながら、
思考の色んな影響と付き合って生きているのだと考えてみることにしました。

人に見られる文章を書くということで、
時に「悩む」ことがあります。
・伝えたいことが伝わるか?
・誰かを傷つける表現になっていないか?
・もっとぴったりくる言葉はないか?

そんなことを思考しながら書いては消して、消しては書いて、
最終的に出来上がった文章に、私は思い入れがあります。

スマホで検索すれば数秒で概念にたどり着ける時代です。
現代は便利さを追求する一方で、
意識的に自分で考える・悩むということ自体が少なくなってきているようにも感じます。

だからこそ、「考える」とか「悩む」とはどういう営みなのか、
Googleには頼らずに思考してみることも重要なのではないか、

と、思ったりしています。


おしまい。
真面目な記事でした。

悩むまめないを10回早口で言ってみようとしたら1回目で噛みました。
どうでもいいけど私が絵を描いてる時は、だいたい悩めない時です。

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梟
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