21 基準と心拍数
基準とは、心拍数のことなのだろう。
歩くピッチも、話す速度も、おにぎりを握るテンポも。
我々は生身で、その要の酸素を送る血のポンプが、心臓という指揮者なのだから。
ランナーズハイとは、心拍数が多すぎる走者が見る、早送りの白い楽園である。
鬱とは、心のリズムが心拍数とシンクロしない、一人無言絶唱団のことである。
子どもは、初めて測った自分の脈が時計の秒針のカウントに近いことに、興奮を覚える。
なんで、秒針と脈の速さは似ているんだろう?
それは、心拍数を基準に秒針の速度を決めたからなのだろう。
4分の4拍子は、心拍数のテンポ。
だから、指揮者はタクトを振りやすい。
素人もタクトを振りたくなるし、振り始めたら、やめられない。
4分の4拍子とは、呼吸の乱れをなおす治療。
1、2、3、4、と、両手で2回視界の底まで沈み込み、3で左右に伸ばし開き、4で元の位置に戻る。
1234、2234、3234、4234……。
気づけば、指揮者も楽団員も、一緒にラジオ体操をしている。
それは早朝の、山のふもとの寺の境内。
春先の、湿りのある透明な冷気を、みなで、吸って吸って、吐いて吐いて。
スピーカーから、「ラジオ体操第二」の声。
みなは顔を見合わせる。
「知ってる人、いる?」
「わし、知っとる」
最年長の鷲山権蔵さんが挙手。
そして、台の上に上がる。
鷲山さんが、基準。
3234、4234……。
みなは、鷲山さんしか見ていない。
鷲山さんが、両腕を上げて二の腕に筋肉を作り、勝利のポーズ。
みな、真似する。
鷲山さんは、台から下り、境内を出た。
みな、ついてゆく。
鷲山さんの歩きは、4分の4拍子。
ちょうどいい、と誰もが感じる。
1234、2234……。
もう、スピーカーの音は聞こえない。
これは鷲山さんの、掛け声。
3234、4234……。
わたしたちは、海辺に着いた。
「こんな近くに海があったんだ」
「知らなかった……」
とみなが口々に言い合う。
鷲山さんは、横歩きになった。
みなも横歩きになる。
鷲山さんが、上げた手の先の指で、チョキを作った。
みなもチョキを作る。
全員で、チョキチョキと鋏の真似。
1234、2234……。
蟹の一族のように、わたしたちは海へ入っていった。
母なる海へ。このリズムの根源へ。
「日本語では、海の中に母がある。フランス語では、母(mère)の中に海(mer)がある」
と誰かがじゅもんのように言う。
「へえ……」
「そうなんだ……」
ぶくぶくと、我々は泡を吐く。
でも、苦しくない。
我々は、徐々に魚に戻っていく。
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