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メキシコレポート Day4-1

 足元に転がる不揃いの石を避ける。石の形が判別できるくらいに薄明るくなってきた。何層も青に青を重ねて、ほとんど黒に近かった空の色が、水をたらしたかのように時間とともに、柔らかな色彩へと戻っていく。夜明けを迎え、朝の祝福に森が照らされても、僕は暗闇の底に沈んでいた。
 スタートからまだ2時間だというのに、まったくもって走れていなかった。前日、岩に打ちつけた右太ももが腫れてしまい、うまく脚が回せない。縫い合わせた裂傷も気がかりだった。太ももにも、裂傷にも痛みはある。しかし、耐えられないほどではないから、それ自体は問題ではない。最も困難なのは、汗をかかずに走らなくてはならないことである。

 昨夜、治療を終えたドクターから、レース続行のお墨付きをもらったのだが、ひとつ条件をつけられた。言い忘れていたのを思い出したかのように、さらりと言う。
「汗をかかないように走ってね」
わかってると思うけど、伝えておくよ、といったニュアンスだった。寝る前には照明を消してくれないか、そんな類の指示に近い。ドクターとしては常識なのだろうが、伝えられた側としては大いに戸惑った。なぜなら、走ると汗をかくからだ。速く走ろうが、遅く走ろうが、体温が上がれば汗をかく。ましてや気温が30℃近くになれば、なにもしなくとも毛穴という毛穴から汗が噴出する。
 そんな中で汗をかかないで走るというのは、絵に描いた餅を眺めて腹を満たすだとか、食事をせずに満腹になってくれ、だとか、ほとんどトンチのような難題である。その目的は、傷口から雑菌が入らないようにするためであり、傷口が開かないようにするためであり、言われたことは理解できる。理解はすれども、実行できるかどうかは別問題だ。
 どうしたものかと思いあぐね、自分の置かれている状況を整理することにした。ドクターに言われたものの、体の生理現象で汗をかくのは仕方ない。だから、努力目標でいいだろう。雑菌が入ったところで、残るは2日間だけ。症状が出る前に完走できるはずだ。
 となると、汗そのものよりも、傷口が開いてしまうことが一番の問題になりそうだ。4日目のコースは65kmと今大会で最長。加えて大きな登りがふたつあり、登りは合計すると4000mオーバーで、富士登山よりも獲得標高が大きくなる。
 ゴールするまでの時間が長くなる分、早い段階で傷が口を開くと、長時間にわたって血が失われていく。そうなると、滑落した直後のように、治療できるスタッフを探してチェックポイントを訪ねて回り、セルフたらい回し状態になるのは必至だ。治療が遅れるとリタイア、重症化する可能性が高くなってしまう。
 さすがに生死にかかわるトラブルは回避したい。一方でララムリと走りたくてここまで来たのだから、最後まで張り合いたいという気持ちも残っている。一応は悩んでみるものの、ほとんど答えは出ていた。行けるところまで行こう。進めなくなりそうになったら、その時はその時だ。なんとかして行くしかない。
 
 浅い眠りから覚め、未明には起床。長い1日を迎えるための支度をととのえる。荷物を片付けたいのに、右脚がうまく曲がらなくて、なかなかはかどらない。寝ているときに痛んでいたのが、悪化しているようだ。ちょっとまずい気もするが、走っているうちにほかの部分も痛んできて、よくわからなくなるだろう。あるいは慣れてくるはずだ、と自分に言い聞かせる。
 続けるか、続けないかの2択しかないのだから、やると決めた以上はポジティブに考えないと、頭と体のバランスが取れなくなる。
 ヘッドライトを頼りに走りはじめる。闇夜のスタートということもあり、たっぷりと水気を含んだ空気が、肌やシャツにまとわりつく。気温はそれほど高くないから、汗をかかない走りにはちょうどいい。抑えめで行こうと思っていたが、思っていた以上に脚の腫れがひどくて、自然とペースが落ちてしまう。
「頑張れ。長い1日だから」
「そうだね、まだすぐ後で」
 包帯がぐるぐる巻きになった僕の右脚をみて、ほかのランナーが励ましながら追い抜いていく。また会おうと返事をするものの、追いつける確信はなく、願望に近かった。
 ウリケの中心部から離れるにつれて民家は減り、地面もアスファルトから林道、本格的なトレイルへと移っていく。この日の前半は、「BORN TO RUN」にも登場するUMBC(ウルトラマラソン・カバーヨブランコ)と同じコースをたどることになる。

 きれいだった路面に、石や岩がまざってきた。普段なら岩場でも気にはならないのだが、右脚のケガに悩まされる。すこし体重がかかるだけで、右脚への負担が大きくなる。腫れのせいで、可動域が狭くなり、バランスが取りにくかった。よろけて転べば、当たりどころが悪いと傷が開いてしまう。さすがに序盤から流血はまずいと、慎重になってしまう。
 僕から遠ざかっていくヘッドライトの明かり。次々に見えなくなる。痛みと焦り、そして不安。もどかしい気持ちで自分にとっての夜明けを待っていた。

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