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「東野圭吾はまじめでお堅そう」と思っている人へ

僕も最初はそう思っていた。
ドラマ・映画化された「ガリレオ」シリーズなどをみても、いかにも硬派な推理小説家のイメージなのだ。
しかし、ある本をきっかけに、そのイメージはもろくも崩れ去った。
その本というのが、東野圭吾初のエッセイ本「あの頃ぼくらはアホでした」だ。

「まあタイトルに『アホ』って書いてるけど、まじめそうな東野圭吾だし、そこまででもないだろう」

読み始める前は、高をくくっていた。
だって、経歴を見てもまじめそうだ。

1958年大阪市に生まれる。
1981年に大阪府立大学工学部卒業後、会社勤めの中、推理小説の執筆を開始。
1985年に『放課後』で第31回江戸川乱歩賞を受賞し、小説家としてのキャリアをスタートさせる。
2006年『容疑者xの献身』で第134回直木賞受賞。
(wikipedia より抜粋)

引っかかるところといえば、「理系出身だったんだ」くらいである。

ところがどっこい、読み始めると、あまりに面白い。
彼の人柄のせいか、ところどころに挟む毒舌のせいか、語り口のせいか。
電車の中でも思わず声を出して笑いそうになったほどだ。
そして、読みおえた後には

「アホというか、無鉄砲というか、お調子者というか。とにかく面白い人だな」

と、それまでのイメージは崩れ去ってしまった。
あまりに面白く、イメージがガラッと変わったので、いくつか紹介したいと思う。


スキー旅行

1972年札幌五輪の影響でスキーへの憧れがあった東野少年と友人たち。
彼らは高校2年の正月にスキー旅行へ行くことになった。
ただ、お金がなかったこともあり、金銭的な前提条件があった。
それが何とも無鉄砲なのである。

「3泊4日で、宿代、交通費、貸スキー代、食費、全部込みで1万5千円以内」

宿代だけでも予算オーバーしてしまいそうだ。
けっきょく、予算内に抑えるため、近場の兵庫県の氷ノ山に夜行バスで行くことになった。
ただ、ここからも無鉄砲なのである。
目的の停留所に着いたのが夜中の2時。
しかも真冬。
民宿に向かうための電車やバスは朝までない。
お金のない東野少年たちは、タクシーなどといった手段をとるはずもない。

「まあ、待合室ぐらいはあるだろう」

という甘い考えで、夜明けまで待つことを前提にしていたのだ。

翌朝、なんとか民宿に着いた彼らにはさらなる壁があった。
(よく死ななかったな)
次のように語られている。

それは貸スキー代のことだ。
なんとかうまく交渉して安くしてもらわなければ、予算の関係上、スキー場に来たのにスキーができないという事態になりかねなかった。

予算内におさめるために交渉で何とかしようというアイデアが、関西人気質なのか、とてもユニークである。
けっきょく、民宿のおばさんから貸してもらえたのは、3日で800円の竹ストックなどを含むボロボロの道具だった。
それでもなんとかスキーを楽しみ、旅行最終日。
返却するときの様子が、これである。

しかしこれらの貸しスキーのうち、最終日に無事な状態で返せたのは、半分ほどだった。竹ストックはほとんどの者が折っちゃったし、スキー板を折った者も二人いた。しかし、僕たちはそのことをおばさんにいわず、こっそりと倉庫に戻しておいた。後日文句がきたという話は聞かなかったから、おばさんとしても、「壊れてもともと」という気持ちだったのだろう。

壊して返したのかよ。
そんで、それを伝えずに帰ってきたのかよ。
しかも、「折っちゃった」とカワイらしく書くあたりや、「文句が来てないから大丈夫」という都合のいい解釈が、大変おちゃめである。

このように、たった一つのスキー旅行だけでも、ツッコミどころてんこ盛りなのだ。

ただ、東野少年のスキー旅行は、まだ終わらない。
このときと同じメンバーで、次の春に箱館山へとスキー旅行を敢行するのだ。
超低予算なのはご愛敬。
そんな彼らは、あることで悩んでいた。
ガイドブックを買うかどうか、ということだ。
そのときのやりとりが、これである。

とにかくガイドブックを買うかどうかでさえずいぶんもめたのである。
「やっぱりガイドブックがなかったら不便やぞ」
「けど必要なページはちょっとやないか。それだけのために誰が高い金を払うんや」
「みんなで金を出しおうたらええ」
「そんな、もったいない」
さんざん議論した結果、本屋で必要ページだけを破って盗んでくることにしたのだった。

あたかも法律の範囲内で解決したように書いてあるところが、なんともいやらしいのである。

「ガイドブックがないと不便」
「必要なページはちょっとだけ」

この2つの意見の折衷案は、さまざまあるだろう。
仕方ないからみんなでお金を出しあって買う、あるいは、中古で買うなど。
しかし、彼らの解決法はそんなレベルではなく、何もかもアウトなのである。
そして、あたかも「リンゴにしようかバナナにしようか迷った末、ブドウもあったのでそれを食べることにした」という平和な日常のひとコマのように語っているのが、また憎めない。

このエッセイだけで、タイトルの「アホ」の意味を十分に理解して頂けたと思う。
僕も数ページ読むだけで「アホやな~」と口にせざるを得なかったのだから。

(p161「何かが違う」収録)


映画批評

小説家には、意外と映画好きが多い。
東野圭吾自身も、映画が作れないから、小説で我慢しているという部分もあるそうだ。
そして、そういう映画好きはどんなに面白い映画でも、つい作り手側の意識で見てしまい、言いがかりに近いようなケチをつけてしまうらしい。

「いかんなあ、せっかく題材がいいのに、このシーンはもっとスピーディーに流したいところだよなぁ」
とか、
「なんだなんだ、このちんけなアクションは。ここはもっと大胆にスタントマンを使ってくれなきゃ困るなあ」
なんてことをいったりするわけである。そして最後に次の言葉が付け足される。
「俺が監督なら、もっと面白くできたな」

先ほどのスキー旅行での東野少年のふるまいを知っているからだろうか。
最後のひとこと「俺が監督なら、もっと面白くできたな」が醸しだす”お調子者感”は、とても納得がいく。

ただ、彼が映画に詳しいのは事実。
僕は映画の基本や撮影技術などについて詳しくないため、「映画通にちょっと近づけるかも」と興味があった。
そして、うれしいことに、彼の映画評が始まった。
いったいどんな世界を見せてくれるのだろう。
ガリレオを読んでいるときと同じくらい、ワクワクして読み進めた。

ためしにこの調子で、最近見た二大映画のケチをつけてみよう。ご存じ『ジュラシックパーク』と『クリフハンガー』だ。先に断っておくと、どちらも大変面白かった。手に汗握った。それほどの映画だからケチのつけ甲斐があるのだ。

ジュラシックパークは僕も大好きな映画だ。
確かに面白かった。
幼少期の僕も、現代に恐竜をよみがえらせた施設内でおきる波乱含みの物語に、ハラハラドキドキしたものだ。
そのジュラシックパーク評が、これである。

さて、『ジュラシックパーク』のほうは、なんといってもストーリーがつまらない。

さっき「大変面白かった」と書いてあったのは、夢だったのだろうか。
「手に汗握った」と書いてあったのは何だったんだろうか。
目を凝らしてもう一度読んでみても、たしかにそう書いてある。
ハラハラドキドキしたものだ、と懐かしんだ僕のピュアな心を返してほしいものである。
そして、こう続ける。

子役を中心に据えたからだと思う。ああいう映画で、今回ほど子役が邪魔に思えたことはなかった。たしかに特撮は見事だし、見て損はない映画だが、結局のところスピルバーグの『ジョーズ』と、マイクル・クライトンの『ウエストワールド』を、一緒くたにリメイクしただけという感じがした。

彼自身、本当に面白いと思っていたのかどうかも、もはや分からなかった。
そして、いろいろな映画評を繰りひろげた後、このように締めるのだった。

とまあこんな具合にケチをつけるのだ。他人の仕事を無責任に批評するのは気持ちのいいものである。じゃあお前がとってみろといわれたら、ごにょごにょとごまかすしかないのだが。

東野圭吾自身、無鉄砲でお調子者な部分を理解しているようだった。
そして、それを包み隠さずユーモアへと発展させる親しみやすさもある。
彼のことに対してなんやかんや言ってきたが、面白くもあり、とてもカワイイ存在だと思った。

(p197「あの頃ぼくらは巨匠だった」収録)


東野圭吾のエッセイは、なぜ面白いのか

東野圭吾が面白いから文章が面白いのか。
それとも、文章が工夫されているから東野圭吾が面白く見えるのか。
おそらくどちらもあるだろう。
そこらへんについて、僕なりに考えてみた。

①人柄(無鉄砲なお調子者感)
ずっと語ってきたように、”無鉄砲なお調子者感”が節々からにじみ出ている。
そして、それが予想外の言動や行動につながっているのではないだろうか。
漫才でよくある〈推理の裏切り〉だ。
「次こうなるだろうな~」と気を抜いていたら、右斜め上を突きぬけていく展開になる。
それが面白さにつながっているのではないだろうか。

②言葉(ほどよい毒舌)
彼は少々毒舌だ。
それは中学時代を記した、p59「ワルもふつうもそれなりに」にも表れている。
受験に不安を抱える不良生徒Yが、合格ラインをクリアするための作戦会議のひとコマである。

Y「試験は5科目。国語、算数、理科、社会、イングリッシュや」
中学3年にもなって、数学のことを算数といってしまうところに、Yの学力が暗示されているといるだろう。

書く人が書けば、読者に不快感をあたえるかもしれない。
だが、映画評の最後にも記したように、彼は自分を包み隠さないことに由来するカワイらしさがある。
だからこそ、読者にほどよい毒舌と受けとられ、面白さを感じるのではないだろうか。

③文章(文体と内容の乖離が激しい)
彼の文章は、終始テンションの浮き沈みが少なく、事実を淡々と語っている。
それは、まるで推理小説のような静けさをも感じる。
ただ、内容がぶっ飛んでいる。
この、文体と内容の乖離の激しさもキーになっている気がする。


最後に

2020年4月に、290万部を超える大ベストセラー「容疑者xの献身」をはじめとした7作品が電子書籍化された。
当時は新型コロナウィルスによる外出自粛が続いていたことから、そういう判断に踏み切ったらしい。
そのニュース記事に、東野圭吾のコメントが掲載されていたので、紹介したいと思う。

「外に出たい若者たちよ、もうしばらくご辛抱を!
たまには読書でもいかがですか。新しい世界が開けるかもしれません。保証はできませんが」

最後の「保証はできませんが」の部分に、僕はうれしくなり、ついフッと笑ってしまった。
東野圭吾少年がまだ息づいているような気がしたからだ。


僕はガリレオシリーズが大好きだ。
そんな僕に、うれしい知らせがあった。
2018年発売のガリレオシリーズの長編『沈黙のパレード』が映画化されることになったこと。
そして、最新長編『ガリレオ10』が今年9月に発売決定したことだ。
飛び跳ねるくらいうれしかった。
福山雅治主演。そして、湯川・内海・草薙がまた帰ってくるのだから。
もし、まだガリレオシリーズを読んだことがない方がいたら、是非読んでみてほしい。
この感動を、きっと味わえると思う。

まあ、保証はできませんが。



(サムネ画像:https://media.thisisgallery.com/20216768より)


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