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我は、おばさん好き

ある本を読んでいるとき、『バカの壁』(著・養老孟司)の〈「話せばわかる」は大嘘〉の一節を思い出した。

養老孟司さんが教授を務める北里大学の学生に、ある夫婦の妊娠から出産までを追ったドキュメンタリー番組を見せたときのことだ。授業の終わりに、ビデオの感想を書かせたところ、興味深いことに、男女ではっきりした違いが現れたのだ。

まず、女子学生のほとんどは「大変勉強になりました。新しい発見が沢山ありました」という感想だった。一方、それに対して、男子学生は一様に「こんなことは既に保険の授業で知っているようなことばかりだ」という答え。同じものを見ても正反対と言ってもよいくらいの違いが出てきたのです。 (p14)

この違いはどこからくるのか?それは、与えられた情報に対する姿勢の問題だとしている。男は「出産」について実感を持ちたくない。だから同じビデオを見ても、女子のような発見ができなかった。つまり、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっているのだ。そして、タイトルにもなっているように、これが一種の「バカの壁」なのだそうだ。


この一節を思い出したのは、『我は、おばさん』(著・岡田育)を読んでいるときのことだ。

様々な映画や小説などに出てくる古今東西の『おばさん』たちを取り上げ、『おばさん』の時代を生きる岡田育さんの所信表明と位置付けられた本だ。それに限らず、読者に向けこんなメッセージを綴っている。

読んだあなたの「おばさん」を見る目が、誰かを「おばさん」と呼ぶときの心持ちが、ちょっと変わるといいなと思っている。あるいは今後、あなたが「おばさん」になるとき、先を往く数多の女性たちの歩みと同じようにこの本も迷子の道しるべ、暗闇の小さな灯り、ポケットの中の非常食、このまま進むぞと確信を持つ手助けの一つになれたなら、それほど嬉しいことはない。(p5)

こうした書き出しを読み、僕はどんなおばさんに出会えるのかを楽しみにしていた。

しかしながら、読み進めるにつれ、自分がショックを受けていることに気づいた。原因はすぐに分かった。『おばさん』という言葉の背景に厳然と存在する、女性が受けてきた理不尽な価値観をまざまざと実感したからだ。

おばさんとは、女として女のまま、みずからの加齢を引き受けた者。護られる側から護る側へ、与えられる側から与える側へと、一歩階段を上がった者。世代を超えて縦方向へと脈々と受け継がれるシスターフッド(女性同士の連帯)の中間地点に位置して、悪しき過去を断ち切り、次世代へ未来を紡ぐ力を授ける者である。カッコよくて頼もしくて、社会に必要とされ、みんなから憧れられる存在であっても、全然おかしくない。それがどうしてこんなにネガティブな響きをもつようになってしまったのだろうか。少なくない女性が「呼ばれたくない」「なりたくない」と怯えるほどに。(p4)

2019年、自民党・桜田義孝衆議院議員(当時)の「結婚しないでいいという女の人が増えちゃった。ここにいる人は、(略)自分たちのお子さんやお孫さんには、三人くらい産んでくれるようお願いしていただきたい」という発言が記憶に新しい。

「あの世代の人たちは、"失言"って指摘されてもピンと来てないと思うんだよねぇ……」

アルバイト先の40代女性の方が、半ばあきらめたような口調でつぶやいていたことを思い出す。

日本社会に限らず、社会にはこうした古い価値観が根強く残っている。「女は若ければ若いほどよい」「女性の価値は加齢とともに下がる」という社会通念。「産むか、産まないか、産むならいつか」という執拗な問い、そして産まないなら『おばさん』になって姥捨山行き。女性の人生の中では、それらが踏絵のように次々と現れる。そのせいで、おばさんになることは忌避され、ネガティブな言葉になっていたのだ。いつも親しみを込めて『おばさん(おばちゃん)』と呼んでいたことが、相手にどう捉えられていたのか急に不安になる。同じ世界を生きてきたのに、性別が異なれば見える世界や、言葉の意味も異なるのだと痛感した。『バカの壁』の一節が思い起こされたのは、このときである。

特に印象的だったのが『口裂け女』の話だ。口元を覆い隠した女性が、学校帰りの子供たちに「私、きれい?」と訪ねる。肯定すると「これでも?」と言いながら耳まで裂けた口を見せてくる。否定すると、その場で刃物で切り付けられるという都市伝説だ。

正直、この話に対する感想は「本当に遭遇したら怖いなァ」ぐらいのものだった。しかし、当事者からみれば見方は変わる。

恐ろしさよりも先に同性として同情を寄せてしまう。見るも無残な顔を晒して「私、きれい?」と訊ね、他社からのジャッジを待ちわびる口裂け女は、この社会に蔓延するルッキズムの痛ましい犠牲者だ。それなのに、褒めても貶しても無差別に襲いかかってくる「加害者」として語り継がれ、忌み嫌われている。『白雪姫』の継母が大切にする魔法の鏡は男の声を持っている。口裂け女も、男児ばかり狙って声をかけるに違いない。その正体は、社会の中で増幅する「若い男を襲う怖いおばさん」のステレオタイプを煎じて煮詰めた妖怪だ。こんな女に、誰がした。(p146)

もっと視野を広げれば、2020年、白石正輝足立区議の「同性愛が広がれば足立区が滅びる」という趣旨の発言をして炎上している。理不尽な価値観の矢面に立ちつづけた人の存在を改めて思い知った。

「僕の人生に、そんな理不尽があっただろうか」と回顧する。振り返ると、僕は世間一般でいう”男らしさ”とはかけ離れていたことを思い出した。小学生のとき、クラブの練習で怒られたり、思うようなプレーができなかったりするたびに泣いていた自分。

「男なのに情けないのぉ」

コーチに小言を言われ、泣きながらもっとみじめな気分になっていた。男らしくて情けなくない同級生が羨ましかった。どうやったらああなれるだろう。そう自問する一方、『一生彼らのようにはなれないだろうな……』と半ば諦めながら、ただただ思い悩むのだった。

僕が子どもの頃は、古い価値観と新しい価値観の狭間にいた。『男は男らしく、女は女らしく』っぽい考えがほのかに残りつつも、地球温暖化やLGBTQ+を含むSDGsのことが取り上げられる時代でもあった。僕が小学生の頃に「君は男性や女性というよりも、中性的だね」と声をかけてくれる人がいたらどれほど楽になれただろうか。自分の中に、『おばさん』という言葉の背景にある問題と似たものを見た。

だからこそ、この記事を書きながら、『おばさん』と何度も書くのがためらわれた。本人が自称するのは良いかもしれないが、他人がおばさんと呼ぶのはどうだろう。ましてや、色々な背景を知った後だからなおさらだ。

ただ、僕は書き続けることにした。なぜなら、それ以上に、おばさんのことが好きだからである。


この本を手に取ったきっかけの一つは、おばさんが好きだからだ。お節介で図々しいこともあるけれど、誰よりも人間らしく愛らしく振舞うところがいい。友達のお母さんやバイト先のパートの女性たちと仲良くし、「車で家まで送ろうか?」と車の窓から顔を覗かせたり、「これ持っていき!」とアメちゃんをくれたりする瞬間は、とても温かくて良い時間だ。

そんな中、スーパーで出会った見ず知らずのおばさんのリアクションには笑いそうになった。(感動したと言ってもいいかもしれない)お菓子売り場の狭い通路をすれ違ったときのことだ。おばさんの肩が、積み上げられたお菓子の山に当たり、今にも崩れ落ちそうになっていた。それを察知した僕がすばやく手を添えたことで大惨事を逃れた。おばさんもそのことに気付く。こういうとき、一般的には「あっ、ごめんなさい!」と申し訳なさそうに謝るのだろう。ところが、そのおばさんはニコニコと朗らかな顔で言い放った。

「おっ、さすがやな!」

なんと、ありがたいお褒めの言葉をいただいたのだ。そのおばさんは初対面の僕の反射神経を「さすが」と評した。いったい僕の人生の何を見てきたのだろうか、いや、何も見ていないのだ。だけど、僕は、おばちゃんのそういうところがたまらなく好きなのである。いつも高いところから何かを授けてくれて、一歩先を行く存在でありながらも並走してくれるような温かみが好き。それは、他の誰も持ち合わせていない、かけがえのないものなのだ。

だからこそ、本書に登場するおばちゃんの微笑ましい場面には「そうそう、こういうところが好きなんだよ」と頷くのである。

停留所でバスを待っているとき、居合わせたおばさんから雨をもらったこともある。礼を述べた母が乗り込んだバスの中でまで話し込んでいるので、てっきり顔見知りなのかと思ったら、赤の他人だというので驚いた。(p217)
大人になった今、私のカバンの中にも、なぜかあるのだ、アメちゃんが。(略)友達と連れ立って劇場や映画館へ行った開演前、打ち合わせ中の仕事仲間の空咳が止まらないとき、よその子を預かって会話が続かなくなったとき、ポーチを取り出して「アメちゃん要る?」と訊きながら、わたし、立派なおばさんになったなぁと自分で自分に感銘を受ける。(p218)

そして、岡田育さんの提唱する『おばさんの定義』に共感するのだった。

おばさんとは、女として女のまま、みずからの加齢を引き受けた者。護られる側から護る側へ、与えられる側から与える側へと、一歩階段を上がった者。世代を超えて縦方向へと脈々と受け継がれるシスターフッド(女性同士の連帯)の中間地点に位置して、悪しき過去を断ち切り、次世代へ未来を紡ぐ力を授ける者である。(p4)


最近聞いた話だが、若者の性への意識の変化がアンケートの作り方に表れているらしい。何も言わずとも、性別は『男』『女』に加え『その他』の欄を設けるのだそうだ。きっと僕が子どもの頃ならありえなかっただろう。

「こうやって時代は変化していくのだなァ」

と、なんだかしみじみとした思いになった。ダイバーシティという言葉の現実味が出てきて、誰もが生きやすい世界に近づいている。ただ、今はそういう価値観を持った人はマイノリティに過ぎない。だから『おばさん』という言葉に残るネガティブな印象を抱く人が多い。それでも、人が変われば、時代が変われば、言葉の意味も変わってくる。言葉は生き物なのだ。だんだんと『おばさん』という言葉が持つ意味が変わってきて、もっと気軽に使える日が来るといい。

それに今だって、大勢じゃなくてもいいから味方が多く集まれば、身の周りだけで『疑似マジョリティ』を作ることができる。そこで得られる安心感は、マジョリティの理不尽な声を低減することもある。僕もそうだった。自分の中に男性や女性、少年性や少女性を感じながら生きてきた僕を救うのは、同じ煩悶をともにし、それを受け入れて強く生きている人たちの存在だった。それは必ずしも数の力ではない。たった一人でも味方がいれば、たった一人でも理解者がいれば救いだった。そう強く思うからこそ、僕は伝える。

我は、おばさん好き。


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