宮沢章夫さんのこと 【大根仁 10月号 連載】
2002年ナンシー関さん、2012年川勝正幸さん、そして2022年宮沢章夫さん。サブカル界……と安易に括ることのできない、1980年代以降の僕らが影響を受けまくったあれやこれやのカルチャーの基準であり、指針であり、大き過ぎる存在であった御三方が、同じターンで向こう側に行かれたのは偶然だろうか? まあ偶然だろうが。試しに1992年に亡くなった有名人を調べると、尾崎豊、寺田ヒロヲ、中村八大、山田花子……うん、まあ偶然だろう。
その突然の死に、当ブロス界隈の方々も弔辞的なコメントを発しているが、ほんの短い時間ではあったが、幸福な関係を築かせていただいたオレも、ここで宮沢さんのことを書いておきたい。
宮沢さんが作ったラジカル・ガジベリビンバ・システムが、サブカル界に与えた衝撃と、以降の時代のサブカルチャーへの影響についてなど、今さら書くまでもないが、1980年代以降のサブカルは、すべてラジカルの“ミクスチャーな笑い”から始まったと言い切ってよいと思う。
ではラジカルの何が凄かったか? 正直、今の若いカルチャー好き・お笑い好きの世代が「へえ、そうなんだ? おっ、YouTubeに当時の映像があるじゃん!」と、ガビガビの画質のラジカル公演を観たところで、その凄さは伝わらないだろう。以降は、先週実際にラジカルのYouTube映像(1986年公演『未知の贈りもの』)を観たお笑い好きの後輩との会話である。
「え? これの何がすごいんすか?」
「いやいや、今のお笑いの基になっているとされる松本人志も実はラジカルの影響を受けているんだぜ。『ごっつ』にも『ビジュアルバム』にもラジカルっぽいネタがたくさんあるじゃん」
「へえ、どっちも知らないす……」
「うんまあ、一言で言えば……カッコよかったんだよ」
一方的な憧れの存在であった宮沢さんと初めて出会ったのは、2003年のことだった。
その頃オレは、フジテレビの深夜番組『演技者。』シリーズの総合演出を務めており、“舞台戯曲×テレビドラマ”というコンセプトで毎月1本(30分×4週)、ジャニーズタレントを主役にして、演劇作品をドラマ化していた。これまで誰もやったことのない難しい仕事だったが、ケラリーノ・サンドロヴィッチ作『室温〜夜の音楽〜』を作った時に、これまで感じたことのないエクスタシーを得た。「演劇というサブカルと、ジャニーズ・テレビというメジャーを掛け合わせることこそ、オレの得意技なんだ!」と気づいたのだ。以降、松尾スズキ作『マシーン日記』や、若い劇作家の才能をフックアップした赤堀雅秋作『アメリカ』や、ポツドール三浦大輔『激情』などを作り、世間的な話題にはならなかったものの、自分の中では確実に手応えを感じていて、「これでオレは演出家としてやっていける!」と、半ば調子に乗っていた。
ある日、次回作をチョイスする打ち合わせで、プロデューサーのK女史が言った。「大根さん、宮沢章夫さんはやらないんですか?」ドキッとした。そして言い返した。「宮沢さん? やるわけないだろ! 怖いわ!……大体、宮沢さんの戯曲が映像化できるわけないだろ!」当時の宮沢さんは静かな演劇に移行しており、遊園地再生事業団というユニットで公演を重ねていたが、内容的に映像化には不向きだった。というか、恐れ多くて手が出せないどころか、考えたことすらなかった。「でも、これならやれるんじゃないですかね?」K女史が差し出したのは、『14歳の国』の戯曲本だった。
『14歳の国』は1998年に青山円形劇場で上演された作品で、1996年に神戸で起きた衝撃的な事件の直後、ある中学校で実際にあった出来事──体育の授業中に教師5人が生徒に無断で机や持ち物の検査をしていたことが発覚して問題となった──を、元にしていた。セットは教室のみ、キャストは5人。物語は淡々としているが、宮沢さんらしいシュールな笑いと、静かながらもいくつも展開があり、終盤に向かうカタルシスも見事で、舞台は未見だったが、確かに映像化できないこともなかった。いやしかし、あの宮沢章夫だぜ! 安易にドラマ化なんて許可するわけないだろう。
「えーでも宮沢さんって元々放送作家だったんですよね? わかってくれるんじゃないですか?」
「いやだから!テレビ業界に辟易して放送作家をやめてラジカルを作って、それもやり尽くしてマダガスカル島に移住して、帰ってきて遊園地再生事業団を作って……とにかくやらない!っていうかやりたくない!怖い!」
「まあとにかく許可申請だけしてみますね」
「……絶対許可しないよ……」
数日後、宮沢さんからドラマ化許諾の返答が来た。幾つか条件があったと記憶しているが、そのうちの一つが戯曲をドラマ用に脚色するにあたっては、宮沢さんの演出助手(だったか?失念)を務めた経験がある放送作家の山名宏和さんにやってほしいとのことだった。山名さんとオレはその当時、別番組で一緒に仕事をしており、山名さんも宮沢さんの指名となれば断るわけもなく、話はとんとん拍子に進んでしまった。ただ「ドラマ化するにあたって、一度宮沢さんとお会いして話をしたいのですが……」というリクエストには応えてもらえなかった。
話は少し逸れるが、ちょうどその頃『演技者。』シリーズをDVD化するという話が決まった。ついては、ドラマ内の音楽はすべてフリー音源を使用、もしくはオリジナルで制作してほしいとフジテレビから言われた。要は既存曲を使うとお金が発生するからめんどくさいということだが、当時のフリー音源は安っぽいものばかりで、とてもじゃないがラジカル時代から劇中音楽にこだわり続けてきた宮沢章夫作品に釣り合う訳がなく、オリジナル楽曲を作ることにした。とはいえ深夜ドラマの低予算、ミュージシャンなどを起用できるわけもなく……スチャダラパーのシンコだ!! シンコだったら『14歳の国』に合うミニマルなビートトラックを作ってくれるに違いない。そもそもスチャダラパーのネーミングは、ラジカルの大ファンだったメンバーが、ラジカル公演『スチャダラ』とラッパーを掛け合わせたもの。宮沢さんがサブカル界に生んだ子どもたちの代表格と言ってもいい。オファーしたら断るわけがない。よしっ!頼もう!! その頃、スチャダラパーとは全く面識がなかったが、これまたその頃、別番組で一緒に仕事をしていた(この頃のオレはどれだけ働いていたんだ?)後輩ディレクターであり友人、そしてスチャダラメンバーと仲良しの岡宗秀吾に間を繋いでもらった。この世には、会った瞬間に「はい、こいつ一生の付き合いになること決定!」となる出会いがある。岡宗君の紹介で、祐天寺のカフェで初めてシンコ君と会った時もそうだった。
「宮沢さんすか……断れるわけないっす」
「あんまりお金無いんだけど……」
「大丈夫っす」
こうしてドラマ版『14歳の国』の制作が始まった。キャストは教師1〜5が三宅健、原金太郎、濱口優、光石研、モロ師岡。ドラマ版オリジナルキャストの保健教師に原田知世。稽古は3日、本番収録も3日。舞台版にも出演していた原金太郎さん以外は、初めての宮沢章夫のセリフに悪戦苦闘していたが、それ以上に悩み苦しんだのは当然、演出のオレだった。本読み〜リハーサル〜立ち稽古を進めていくが、自分が本当に宮沢さんの戯曲を理解しているのか? 役者に付ける芝居の動きは正しいのか? 何よりもこのドラマが本当に面白いものになるのか? 完全に行き詰まった稽古2日目、夕食休憩の時に三宅健が近づいてきてこう言った。
「大根さん、この脚本めちゃくちゃ面白えよ。ヤバいよこれ」
確かに本読みから稽古の間、三宅はずっとクスクス笑い、時には吹き出して「ごめーん、だって笑うでしょこれは!」とか言って、終始脚本を楽しんでいた。どう考えても三宅が宮沢章夫の戯曲やセリフをすべて理解していたとは思えないが、何も考えずに向かい合うとこんなに楽しめるのかと、オレの中で行き詰まっていた何かがスッと溶けたような気がした。
本番の3日間はハードなスケジュールだったが、キャストもスタッフも、オレも楽しんだ。この原稿を書くために、久しぶりにDVD特典のメイキング映像を見直したのだが、皆終始笑っていた。シュールな舞台設定と独特の緊張感と奇妙な空気の中に生まれる「なんでこれが面白いんだろう?」という不思議な笑い。ああ、これがラジカルを経て、遊園地再生事業団で宮沢さんがやろうとしていたことなのかもしれない。撮影しながら、宮沢さんの頭の中に少しだけ、侵入できたような気がした。
編集が終わり、放送が始まった。三宅をはじめとする役者たち、山名さんの的確な脚色、スタッフワーク、シンコ君の素晴らしいビートトラックにも助けられ、ドラマ版『14歳の国』は、自分でも納得できるようなクオリティとなった。
だが、気になるのは宮沢さんの感想である。その頃、宮沢さんは遊園地再生事業団のホームページで富士日記というブログ的な日記で、日々の出来事や観た芝居の感想を書いていた。ドラマ版『14歳の国』の感想も書いてくれるんじゃないか?と、1日に何度もチェックしていると、確か放送の2回目の翌日に短い感想を書かれていた。「なるほど、テレビでこの戯曲をやるとこうなるのか」的なものだったが、決して否定的なニュアンスではなく、それからも毎週短い感想を書いてくれて、どうやら楽しんで観てくれているようだった。
オレは再度、DVD特典用にインタビューを申し込み、宮沢さんはそれを了承してくれた。数日後、下北沢のカフェでお茶を飲みながらインタビュー収録をしたのだが、正直この時のことはまったく覚えていない。DVDでそのインタビューを見返すと、生意気にもオレはドラマ版『14歳の国』の出来に自信たっぷりで、宮沢さんに色々な質問をしている。当時、坊主頭だった宮沢さんは、ニコニコしながらタバコをプカプカ吸いつつ、それに答えてくれている。「テレビでやるっていう時点である種、諦めていた部分があったんだけどね、放送を観たらそうではなかったんで、僕は観ていて非常に気持ちが良かったですね」
さらに数日後、宮沢さんとシンコ君とオレの3人で飲みに行くことになった。場所は恵比寿の老舗居酒屋「さいき」。宮沢さんは酒を飲まなかったので、車で来ていた。この時は本当に楽しかった。ずっとずっとくだらない話をしてゲラゲラ笑っていた。なんの話で笑ったのか、これもまた全く覚えていないが、酔っ払ったシンコ君とオレの話に、宮沢さんはずっと笑っていた。店が閉まり、外に出ると宮沢さんは言った。「家でもう少し飲もうよ。俺は飲まないけど、酒はあるよ」宮沢さんが運転するゴルフで家に行き、朝まで飲んだ。宮沢さんの家でも3人でずっと笑っていた。あの夜は楽しかったなあ。本当に楽しかったですよ、宮沢さん。たった一つだけ覚えていることがある。どのタイミングだったか忘れたが、ドラマ版『14歳の国』のことをこう言ってくれたのだ。
「あれはねえ、カッコよかったよ。うん、カッコよかった」
それから数度、宮沢さんに会った。舞台公演の後に数回。2005年のライジングサンロックフェスティバルでは桑原茂一さんプロデュースのステージで宮沢さんとオレが、偶然録れてしまったテレビのしょうもない録画映像を観ながらトークをするという“共演”もさせていただいた。スチャダラパーも飛び入りで来てくれて、会場はめちゃくちゃ盛り上がった。バックステージにいると、別のステージでトークショーをやっていたリリー・フランキーさんが来て宮沢さんに挨拶をしていた。それまでリリーさんとは面識はあったが会話をするような仲ではなく、改めて宮沢さんから「リリー君、こちら大根君っていう面白い人」と紹介してもらった。それからのリリーさんとの長い長い腐れ縁のような付き合いもその時から始まった。
最後にお会いしたのは、2018年に再上演された『14歳の国』のアフタートークだった。早稲田小劇場どらま館という小さな劇場だったが、演出は瑞々しくキレキレで、相変わらずカッコよい舞台だった。
アフタートークが終わり、外に出て挨拶をすると宮沢さんは言った。
「来てくれてありがとう」
結果、宮沢さんと会ったのも、宮沢さんの演劇公演もこれが最後となってしまった。
宮沢さんと会って何を話したか、すっかり忘れてしまっているオレだが、明確に覚えていることがある。2003年公演の遊園地再生事業団『トーキョー・ボディ』を観にいった時のことだ。終演後に宮沢さんに挨拶をし、「カッコよかったです」と伝えると、宮沢さんは笑いながらこう言った。
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