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夏の夜の終わりに ⑮

 「少しコーヒーを淹れていい?」
 僕が頷くと彼女は立ち上がり、ポットのお湯を沸かした。お湯が沸くまで彼女はじっとポットを見つめていた。その間、僕らに会話は無かった。お湯が沸きあがると当たり前のように戸棚からコーヒースティックを取り出し、二つのカップにお湯を注いだ。
 「どうぞ」彼女が淹れたコーヒーを「ありがとう」と受け取った。彼女はまた僕の隣に腰を掛け、一口コーヒーを含んだ。
 「全て、話した方がいいかしら?」
 僕は首を横に振る。「あまり話したくないならいいよ」
 彼女はまたコーヒーを一口含んだ。僕はコーヒーに手を付けなかった。
 「それは私が話したかったら話してもいいってこと?」
 「そうだね」
 「あまりいい話ではないわ。それでもいい?」
 「もちろん」僕は頷いた。そして初めてコーヒーに口を付けた。思いのほか苦くて、少しだけ舌が痺れていた。
 「そうね。じゃあ、話させてもらうわ。君と出会った理由でもあるからね」
 彼女はまたコーヒーを飲んだ。そしてゆっくりと息を吸った。
 「私の家はね、あまり裕福じゃなくてね。きっと君が思っている以上に裕福じゃないの。お父さんはいなくて、お母さんは病気で入院しているのよ」
 「夜の仕事をしているっていうのは?」僕が訊くと彼女は小さく微笑み首を横に振った。
 「あれは嘘。だっていきなり病気だなんて言ったら驚くでしょう?」
 「そうだけどさ、わざわざそんな嘘を付かなくても」
 「女の人は割と簡単に嘘を付くものよ」
 彼女は僕の唇を人差し指で抑えた。自然と僕は黙った。
 「うちは祖父母も死んでしまっているし、お母さんも一人っ子だから頼る相手がいなかったの。だから、私が頑張ってお金を稼ぐしかなかった。もちろん医療費は保険でなんとかなる部分もあったけど、全額免除ってわけじゃないし、私自身の学費や生活費も工面しないとならないしね。これでも、最初は普通にアルバイトをして頑張っていたのよ。でも、高校生がアルバイトをしたところで貰える額なんて大したものじゃないわ。二十二時には家に帰らされるし、元々の時給も安いしね。そんな状況でまともに生活していけないことくらい、誰だって分かるわ。そんな私に残された手段は体を売ることしかなかった」
 そこで一度彼女は言葉を切った。しばらく僕を見つめ、頬に手を伸ばした。そして「ねえ、私は汚れた人間だと思う?」と訊いた。とても悲しそうな瞳だった。
 「そんなことはないよ。君はとても綺麗だ」僕は頬にある彼女の手に触れた。「ありがとう」と彼女は言った。
 「でも、全ての人が君みたいに言ってくれるわけではないわ。もちろん、私が全てを話しているわけではないから、勘違いされるのも仕方がないことなんだけどね」
 彼女は一度大きく息を吐いた。
 「ここ、よく来るのよ。知らない男の人とね。それで知らない男の人とそういうことをしている最中に、私はずっと天井を見ているの。何の変化もない天井を見ていると、私自身も何一つ変わっていないように思えるから。もう何度も天井を見続けたせいで、ちょっとしたシミの場所まで覚えてしまったけどね。でも、私がシミを見ている間に男の人は勝手に終わらせて、お金をくれるのよ。いい商売だと思わない?おかげでお金には大して困らなくなったの。ほら、私って案外悪くない顔をしているでしょ?わりと売れっ子なんだよ」
 彼女は自分の頬を数回人差し指で叩く。そして誘惑的な笑みを見せた。
 「確かに、君はとても美しいよ」
 「ありがとう」彼女はまたコーヒーに口を付けた。彼女のカップを見ると、コーヒーはもう三分の一程度しか残っていなかった。僕もコーヒーを飲んだ。
 「はっきり言って、こう言った仕事は特に嫌ではなかったの。だって、言ってしまえば全てを男性に委ねるだけでお金が貰えるんだからね。へこへこ頭を下げて働くよりは楽なのかもしれない。でもね、ばれちゃったのよ」
 「ばれちゃったって?」
 「クラスメイトに。休日は昼から仕事をしていることが多いんだけど、その時に見られちゃったみたい。私と男性がホテルに入っていくところをね。例えばクラスメイトの男子とホテルに入ったとかならちょっとした噂話で終わるんだけど、相手が剥げたおじさんとなるとね。いろんな憶測が飛び交うのも仕方がないよ。それから瞬く間に私の良くない噂は広がって、学校では売女呼ばわり。正直に言ってね、とても屈辱的だったわ。だって、私は意図的にそうしたわけではなくて、結果的にそこへ行きつくしかなかったのに。この意味が分かる?」
 「もうどうしようもなかったってことだね」と僕は答える。「そう」と彼女は頷いた。
 「もし私が体を売って生き続けていくのなら学校を辞めても良かった。言ってしまえば就職もしているわけだから、学校に行く意味もないしね。でも、私はそうやって生きていきたいわけではないのよ。普通に大学にも行って、普通に就職して、普通の家庭を作るの。そして子どもを普通に産んで、元気になったお母さんに抱きしめてもらうの。とっても普通な夢でしょう?」
 「そうだね」
 「だから私はその普通を叶えるために何度売女と言われても、何度暴力を振るわれても学校に行かないといけない。普通に生きて行くために、この非凡な日常を乗り超えないといけないの」
 「でも、君は泣いている」
 「泣いてなんかないわ」
 彼女は不機嫌そうに僕を睨み、苛立ったような声をあげた。
 「泣いているよ」
 僕は彼女の頬を伝う雫を拾い上げる。「ほら、泣いているよ」
 「泣いてなんか、ないわ」
 その瞬間、彼女は大粒の涙を溢した。彼女は力なく体を折り曲げ、僕の胸元に顔を当てる。そんな彼女の背中に手を回し、僕は彼女を抱きしめる。彼女の涙で僕のバスローブが濡れる。
 彼女はやっぱり泣いていた。

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