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1ミリも無理したくないって思ったほんとうの気持ち
私にとって「無理をする」という言葉は、言い換えると、
私がしたくないことを、1ミリもしたくない。ということだった。
したくないなら、しなければいいじゃないか、ということになる。
いたってシンプル。
だけれど、
どこかで”すべきだ”と思っている私がいるから、
「1ミリも無理したくない」って思いがでてくる。
”したくない”と思っている私 VS ”すべき”と思っている私。
いつまで経ってもその2人は平行線。(両方私なのだけど)
彼方を立てれば此方が立たず。(あちらもこちらも私なのだけど)
ケースバイケースとか、バランスをみつつとか、言いつつも
”すべき”と思っている私の意見が採用される。”すべき”私の言うことが”現実的”だし”正論”のように思える。(脳内会話)
そして、
無理したくないと思いながら無理をするという、ブレーキ踏みながらアクセルべた踏みするという、エネルギー消耗のループに入り、
また、「1ミリも無理したくないっ」て叫んでいるのです。(心の中で)
でもね、
中島 智さん(@nakashima001)のTwitterを読んで、私のほんとうの気持ちがわかった気がした。
「やるべきことが見つからない」とよく聞く。これは自分がやっていることをことごとく「やるべきことをやっている」と納得する仕方とおなじく、ベキ(可き:主観をこえた理のあること〔広辞苑〕)を求めているわけである。すなわち、愛されたりていないということ。
— 中島 智 (@nakashima001) April 18, 2022
無理をしようとしまいと、
しなければ、やはりすべきだったんだろうかと思い、
やれば、やはりしたくなかったと思う。
”したくない”と”すべき”は「無理」の同一線上の両端にあった。
”すべき”と思っている私の意見が採用されることが多くなると、
”したくない”という私の叫びが大きくなる。そんなこと”すべき”ではないと。
さらに、
”すべき”と思っている私はその叫びを封じるようにその理由を重ねて、
”したくない”という私の叫びは悲鳴にかわっていく。
どちらの私も先がみえない。
果てしなく孤独を感じるだけ。
それが、愛され足りてないということではないだろうか。
私が決めたなら、それでいい。
どうしてこんなにも自分を疑っていたのか。
無理をしようとしまいと、それでも、私が決めたんだったらそれでいい。
それが、自分自身を愛することなんじゃないだろうか。
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