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タトゥーを彫った話

遺体の残る死に方がいい。
自分の最期を選ぶことはできないけれど、なにか望むとしたらわたしは遺体の残る死に方をしたい。できたらいい。数年前に祖母の自宅で荷物の整理をしたのをきっかけに、わたしは自分の終末についてよく考えるようになった。引っ越しのときになるべく服を減らしておこうとか、買い物をするときには長く使えるものを選ぶようにしたりだとか。
そうしていつか棺に入ることになったときに、わたしはどんな格好だろうかと考えた。
おそらくは白い着物を着せてもらえるのだろう。普段着での入棺も一般的になってはきたが、故人が女性の場合は最期だからと白無垢にも見えるそれを着せて妻を、母を送る家族のほうが多い。葬儀は遺されるひとたちがこころの整理をするためのものだからだ。

二十代半ばのころ、自死した友人のことを思い出す。彼女も白無垢と綿帽子のようなうつくしい衣裳を身につけて、きれいにお化粧をして棺のなかにいた。わずかな期間だったが冠婚葬祭の職に就いていたあいだ、わたしはあらゆるご遺体とご遺族、そして葬儀を見てきた。祖父や近しい人の葬儀も経験してきたなかで、特に心に残っているのはその友人と、祖父と、生まれたばかりの赤ん坊の遺体だ。
夏のうだる暑さのなか、大きな木造の家の和室に寝かせられていた生後二日の女の子は死亡届を出すために急いで名前をつけられた。開いた縁側の窓やそこに腰掛けたお母さんの悲しいうしろ姿を、わたしはよく覚えている。
葬儀が遺された人々のためであることは祖父を送ったときに改めてそう思った。闘病から2年も経たないうちに祖父は亡くなり、待ち受ける別れに身構える時間が少ないながらもないわけではなかった。それでもたった1日という時間のなかで葬儀に関する諸々のことを決めて、慌ただしく準備を進め弔問客を迎えなくてはならない。亡くなった当日に通夜を営む他の遺族はさらに短い時間で、それをするのだ。
祖父の趣味だった洋楽をかけ、祭壇のとなりにギターを飾った。弔問客に祖父を知ってほしかったからだ。定年まで自衛官を務め、その後は警備会社で多くの同僚から慕われていた自慢の祖父だった。わたしとは血の繋がりがないのだが、それを忘れるほど母子家庭で育ったわたしたち姉弟を祖父は父親のように愛してくれたし、わたしと祖父は趣味も嗜好もよく似ていた。ふたりとも和食や梅干しがすきで、ひとりでのんびりとなにかをつくるのがすき。ふたりでプールに行くのもすき。火葬したあとに集めた骨のしろいかけらを飲んでしまおうかと思うくらい、わたしにとって祖父は大きな存在だった。

入棺するまでの時間、わたしはつめたくなった祖父のおでこにおでこをくっつけたり、痩せた手を握ったりして過ごしながら葬儀の段取りを決めた。仮眠をとるときもぴったりと祖父にくっついて眠った。つめたくてかたいけれど祖父は祖父で、ただそこに魂がもう宿っていないだけだった。からだがあるうちはまだそう思えていたのだ。
火葬が終わり、ひとのかたちを失ってしまうと、わたしははじめて離別を感じた。からだの一部をなくしてしまったような気がした。集めた骨の一部を硝子の小瓶に入れて持ち帰り、いまもリビングの片隅に置いている。でもそれは祖父の骨でありもう祖父ではない気がしている。いつも、わたしは祖父に会いたい。

どんなふうに死にたいだろうか。わたしは夫や母、子どもたちのために遺体が残る死に方をしたい。子どもたちがさわりたいだけさわらせてやれたら、さいごまでいっしょに寝てやれたらと思う。自分のからだが死んだあとにどうなろうと興味はなかったが、すきなものを身につけていられないのはさみしいかもしれないと思うようになった。
そうしてわたしはタトゥーを彫ると決めた。子どもたちの生まれたときの体重、8桁の数字。左手首の内側に彫ることにしたのは、自分のからだのなかで唯一すきな部分だと思うからだ。十代のころにリストカットをした跡を隠すように、そこにタトゥーを掘ってもらった。すると自分のことがまたすこし、すきになれた気がした。
子どもたちを育てながら、母として生きながらわたしはすこしずつ自分を育て直していると思っている。子どもたちを抱きしめながら子どものころの自分のことも抱きしめるのだ。だいじょうぶ、わたしはあなたがすきよと。


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