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『ダークネスブロック』 序章

高村 龍一 作

序章

 東京の外れにそびえる、古びたコンクリートの塊――それが「ダークネスブロック」だ。築30年以上の巨大マンションで、地上20階、地下2階。5棟から成るこのマンションは、その規模と名の通り、周囲の街並みを圧倒する存在感を放っている。各棟には、何百もの部屋が並び、それぞれが異なる暮らしを営む家族で埋め尽くされている。  

 マンションの周囲には薄暗い路地が張り巡らされ、その向こうには低層の古い商店街や、小さな工場が散在する。昼間は閑静な住宅街の一角に見えるが、夜になると途端に異なる顔を見せる。街灯が少なく、影が深くなるにつれ、通り過ぎる人々は早足になる。ダークネスブロックの周囲には、理由の分からない恐怖が漂っているのだ。

 しかし、そんな不安な雰囲気を感じさせながらも、このマンションには数百人もの住民が暮らしている。彼らはそれぞれの生活を送り、隣人との挨拶や小さなトラブルに頭を悩ませながらも、日常を過ごしている。昼間は子供たちの遊ぶ声が響き、エントランスでは買い物帰りの主婦たちが立ち話に花を咲かせる。エレベーターの中では、マンションの自警団のメンバーが住人と笑顔で挨拶を交わし、夕暮れ時には部屋の窓から夕食の匂いが漂ってくる。ここだけを見ると、どこにでもある平和な住宅街の一部のように思える。

 だが、ダークネスブロックの本当の顔は、その表面の穏やかさとは裏腹だ。マンションの地下には、居住者以外の人々が秘密裏に出入りする不気味なドアが存在する。建物の陰には、異様なほど高価な車が頻繁に停まることもある。無邪気な子供たちがその車のナンバープレートを見つけて好奇心を示すことがあれば、すぐにその場から引き離される。誰もが気づいていながらも、あえて口にしない「何か」がこのマンションには確かに存在している。

 ダークネスブロックの影には、いくつもの目に見えない力が蠢いている。そして、それは、住民たちが知るべきではない世界――暴力と策略の渦巻く闇の世界へとつながっているのだ。

 黒龍会の幹部、真島隆二。彼は若くして黒龍会傘下の小さな組を任されていた。見た目からは彼がヤクザであるとは思えないだろう。そもそも真島は堅気の人間で、たまたま入社したのが黒龍会のフロント企業だった。真島は知らぬ間にこの世界に足を踏み入れていた。この日真島は黒龍会の本部に呼び出された。組長直々に、真島にある命令が下された。

 真島は白のスーツに身を包み、鏡の前でネクタイを締め直していた。表情には無表情が張り付いている。組の命令は明確だった。複数の組が根城にしている、通称ダークネスブロックと言われるマンションに潜り込み、他の組のシマを獲れ――だが、縄張り争いの最前線に送られるにしては与えられた手駒は最小限。組は真島が組織の中で力を持ちすぎることも恐れていた。

「おい、真島。準備はいいか?」部屋のドアを開け、慎重な表情で現れたのは、同じ組の幹部、金城だった。彼がこの任務に不安を感じているのは明らかだったが、それを口にすることはない。

「あぁ」真島は軽く笑って見せた。真島は腕っぷしには自信がある。ダークネスブロックがいかにヤクザの巣窟とはいえ、表向きは銃でドンパチと荒っぽくやり合うようなことはあるまい、そう考えていた。金城のような緊張感が無いのはそのためだ。

 真島と彼を補佐する相馬慎太郎、藤川美沙子、梶原陽介は、金城が手配したダークネスブロックの各部屋に、それぞれ最小限の手荷物だけ投げ入れた。それで引っ越し終了である。

 その後、真島と金城達が乗り込む車は、静かにダークネスブロックの住民――ヤクザが集まるクラブに向けて走り出した。窓の外には、荒れ果てた夜の街の風景が広がっている。かつては繁栄していたこの一画も、ヤクザたちの冷戦でかつての賑わいを失っていた。

 ビルの一角にある派手なネオンのクラブはすでに満席で、若社長が部下とバカ騒ぎ――という感じではなかった。目つきの悪い連中が派手に体を露出した女の肩を抱き、札をチラつかせるような光景があちこちで見られた。

「真島さん、万一の時は合図を。この程度のチンピラども、俺一人で十分…」梶原が小声で耳打ちする。

 梶原は組のいわば肉体労働担当で、中学中退で十三歳の頃にはこの世界に足を踏み入れていた優等生である。まだ三十代手前だが腕っぷしも度胸も並のものでは無い。

「分かってる。できれば内密に事を運びたかったが、空き部屋に入居者があればどのみちすぐに情報はまわる。むしろ正面突破の正攻法の方が、荒っぽいことはできねえってもんさ。ご近所さんにはちゃんと挨拶をと、学校で習わなかったか? あぁ悪い、中卒だったな」真島は冷たく答えると、店の奥へと進んでいった。「いえ、卒業はしてません」梶原が後に続いた。

 店内はすでに異様な空気が充満していた。ヤクザたちの視線が新参者の一点に注がれていた。お互いに出方を窺う、その張り詰めた緊張を一人の男が切った。

「お前はマンションの新参者だな? ご近所さんってわけだ。仲良くやろうや。よろしく頼むぜ」と、男は吸っていた葉巻の火を真島の白のスーツの胸ポケットに擦り付けて消した。

「えぇ。いろいろご迷惑をおかけするかも知れませんが、よろしくお願いします。生憎引っ越しそばを用意してませんでね。おたくの飲んでるその酒、俺が奢りますよ」と真島はホステスを押し除けて座り、テーブルにあったタバスコの蓋をおもむろに開け、男のドンペリのグラスにひと瓶丸々注ぎ込んだ。

 その瞬間、店内の緊張感がピークに達した。男の隣に座っていた若いチンピラ二人が同時にバネのように立ち上がり「オイッ!!」と一瞬でバタフライナイフの刃を出し凄んだ。男は咄嗟に手を翳して静止した。

「フフ、俺ぁそういうジョークは嫌いじゃねえよ。笑えるじゃねえか、なっ、おめえら」男が睨みをきかすと、チンピラ二人は頭を押さえつけられるかのように、下唇を噛みながらぎこちなく元のように座った。周囲の者も時間が止まったかのようにこの様子を見ている。

「俺は山王会の鮫島。聞いたことねえか、あっ?」

「この業界で山王を知らん奴はおりませんよ。山王の鮫島っていやあ、若手幹部の中でもバリバリの武闘派、イケイケっていうじゃありませんか。」

「こっ恥ずかしいじゃねえか、そう褒められるとよ。まぁ、一杯飲めや」そう言うと鮫島はタバスコ入りのドンペリをゆっくり真島の頭からかけた。周囲からクスクスと啜り笑いが聞こえる。

 今度は反射的に梶原がワインの瓶の口を掴んでたたき割り、鋭い方を鮫島に向けて構えた。ほぼ同時に鮫島の隣のチンピラもバタフライナイフを構え直した。真島は瞬時に梶原の襟を握って締め上げた。

「ごっそさんです」真島は事もなさそうに紙ナプキンでドンペリを拭きながら言った。「真島さん…」梶原が目を地走らせながら感情を押し殺している。

「兄ちゃん、俺の酒も飲めや」
「そんなもん放っといて、こっちきて儂のナニでもしゃぶれや、ヒヒヒ」

 途端にあちこちから真島を茶化す声が湧いたが真島は動じず、代わりに別のところから「オイッ!!」と怒声が響いた。一番奥で両脇にホステスをはべらせてふんぞりかえっているコワモテが、一同を一喝した。

「お引越しの挨拶はその辺で勘弁してくれへんか? 酒が不味なる」獣のような声質と、笑顔だが感情のない目がただものではない事を物語っていた。この場の客はそれぞれ別の組の者であろうが、その皆をこの男は一言で押さえつけた。

「おニィちゃん、度胸は認めるわ。けどな、あんまり調子こかんほうがええで。あのマンションの連中は、ちょっとヤンチャがすぎるさかいな。まっ、ご近所さん同士、楽しゅうやろうや。ほんで、今日のところはもう居ねや、なっ?」

「邪魔しました。梶原、行くぞ」真島が踵を返すと躊躇しながら梶原が続いた。表に停めていた車に乗り込むと、金城と相馬、藤川はシャンパンまみれの真島を見て事の凡そは察したようだった。「で、どんな具合?」と藤川が真島に訊くと、真島は「さあねぇ、できれば組に長めの休暇を申請したいところだがね」と答えた。(次号へ続く)

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