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『調律師アリシア』 序章

佐丘 昭美 作

序章

アリシアの日常

 アリシア・クラインは、時間の流れの中に立つ存在だった。彼女の仕事は「タイムレギュレーター」として、歴史の余計な変化を防ぐこと。時代が変わろうとも、人々が気づかぬほどの影で、歴史は少しずつ修正されている。時計の針が進むたびに、彼女の足音もまた、時空のどこかで響いている。

 アリシアが所属する民間時空管理会社、"クロノス・ガード"は、現代の人々には馴染みの薄い存在だが、世界は彼らによって何度も救われてきた。歴史は不変ではなく、いくつもの分岐点を経て、今の形に保たれているのだ。アリシアの仕事は、決して派手ではない。。むしろ、日常的な監視と時折の介入で成り立っている。時間旅行の概念自体が、人々の常識に収まらないものであるため、その存在は秘密裏に保たれていた。

 彼女がこの仕事を選んだ理由は、幼少時の夢だった。時間を超えて、過去や未来を見渡せる力に魅了されていた。だが、現実は理想とは程遠い。無数の平行世界が存在し、それぞれの時間軸には独自のルールがあった。歴史の変更を未然に防ぐため、アリシアは日々、同じ時間の中を何度も巡っている。

 今日もまた、アリシアは定時に出勤し、定時になれば帰宅する。神経質なくらい時間に忠実な性格をアリシアは、まさにこの仕事のためのものだろう、この性格はある種の才能、仕事は天職なのだと考えていた。

 時間が止まらないように、アリシアの業務も続く。

研修

 アリシアはクロノスガードに入社して約半年になるが、これまでずっと時間監視部門でモニタチェックの業務に携わっていた。これは、いくつかのパラレルワールドをモニタで歴史改変がないかチェックする仕事なのだが、基本的に大事になるような事件も無く、また新人に任されるモニタはごく簡単なチェックのみなので、退屈でやめてしまう者も多かった。アリシアはのんびりした性格に仕事が合っていたのか、特に不満もなく、それなりに楽しみながら業務にあたっていた。しかし今朝主任に、今日からモニタチェックだけでなくタイムレギュレートの現場研修をするよう言い渡された。アリシアは「入社半年で早速キャリアアップだわ!」と小さくガッツポーズをした。研修の指導をしてくれる先輩は人語を話す三毛猫フィリス主任。当然ながら、パラレルワールドではカエルが百獣の王であったり、万物の霊長がオットセイという世界もある。クロノスガードは多文化共生企業なので猫が主任であるのは珍しくない。

 フィリスは早速アリシアを、クロノスガードの奥にある回廊に連れて行った。回廊には無数のドアが並んでおり、フィリスはそのうちのひとつを、肉球(手のひら?)を上にして指し示した。ここに入れということだなと察してアリシアが扉をを開けると、どこかの厨房につながっていた。フィリスはアリシアに、その厨房のモップがけを命じた。

「これがタイムレギュレーターの研修なんですか?」

「そういうこと。つべこべ言わずにさっさとやる!」

 つまらない仕事に不貞腐れながらモップをかけるアリシア。レストランかスーパーか、どこの厨房かわからないがそこは奥に広く、いろんな機器にモップが引っかかり、とにかく面倒だった。アリシアは不機嫌さを露骨にはしなかったものの、乱暴に振ったモップでうっかりバケツの水をこぼしてしまった。フィリスは一瞬「やっぱりね」という表情をし、すぐにアリシアに回廊まで戻るよう言った。フィリスに、回廊に並ぶ別の扉をうながされて開けると、水が溢れ大洪水になっている川の中洲に出た。家や車が濁流に流されて大惨事になっていた。

 アリシアは、途方に暮れたような目で目の前の洪水を見つめていた。巨大な川の堤防が決壊し、街中に濁流が押し寄せている。人々は家屋の屋根に避難し、助けを求めて叫んでいた。

「これがバケツの水をこぼした結果だよ。わかるかい?」フィリスが言った。

「そ、そうなんですか?」不安そうに問うアリシアに、フィリスは冷静に答えた。「時間軸を超える小さな行動は、時としてこのような大きな影響を引き起こす。君のバケツの水が、ここでは洪水を引き起こしたんだ。もちろん、ある時間軸では大惨事でも別の時間軸では埃が舞う程度のこともある。これは経験して学ぶしかない」

 アリシアは言葉を失い、足元の泥に視線を落とした。彼女がこぼしたただの水が、ここでこんなに恐ろしい災害を引き起こすとは想像もしていなかった。フィリスはしっぽを優雅に揺らしながら、アリシアを見つめた。

「君はタイムレギュレーターとして、自分の行動の結果をよく理解しなければならない。時空の調律は、非常に繊細な作業だ。ちょっとしたズレが、全く異なる世界に予期せぬ影響を与えることがある」

「でも、私はただモップがけをしていただけで…」アリシアは俯いたまま言い訳をしようとしたが、フィリスの鋭い瞳に気づき、すぐに口をつぐんだ。

「そんなことは理由にはならない。君がどんな仕事をしていようと、ここでの影響は変わらない。私たちは歴史の流れを守るためにここにいるんだ。それを忘れてはならない」

 フィリスの言葉が重くのしかかり、アリシアは深く息を吐いた。自分の行動が思いがけない結果を生むという現実に、彼女は初めて真正面から向き合った。これまでの監視係の仕事は、ただモニタを見ているだけだったが、実際の現場は全く違った。

「さあ、次はどうする?」フィリスは冷静な声で尋ねた。

 アリシアは考え込んだが、やがて決意のこもった目でフィリスを見返した。「洪水を止める方法を探します」

 フィリスは満足そうに頷き、彼女に先導を促す。「その意気だ、アリシア。それがタイムレギュレーターの第一歩だ」

 アリシアは回廊へ戻り、元の扉を開けた。バケツは元の場所より少し転がっていた。

「でも、バケツの水と洪水の具体的な関連性は…」  
 アリシアは自分の手元に転がった空のバケツを見つめて考えていた。フィリスの目は厳しく、何かを言いたげだったが、アリシアの混乱に気づいてため息をついた。

「いいか、アリシア。これは理屈じゃないんだ。タイムレギュレーターとして覚えておかなくちゃならないことは、どんなに些細な行動でも、パラレルワールドでは予期せぬ結果を引き起こす可能性があるんだ」

「でも、たかが水をこぼしただけで……それが大洪水にななるなんて…」  
 アリシアは焦りながらフィリスに問いかける。

「このバケツの水は、君が操作した時空ポイントのちょうど境界に位置していたんだ。その境界にある水分子が不安定な状態にあったから、君の一滴が引き金となって、別の世界では大量の水を引き寄せ、洪水を引き起こしたんだよ」  
 フィリスは淡々と説明したが、アリシアはますます混乱した。

「じゃあ、バケツに水を戻せば…!」

「まずは冷静になれ。そんな単純ではないぞ。バケツを倒すという事実はすでに起きてしまった過去なんだ。さぁ、ここからが君の試験だ。自分の行動の整合性をとるんだ。よく考えて、どの時点で修正を加えればいいのか見極めるんだ。まずは、バケツを倒す前の瞬間に戻るんだよ」

 アリシアは深呼吸し、フィリスの言葉に従って慎重に時計を取り出した。タイムレギュレーターに支給される特殊な懐中時計。これが過去に戻るためのキーとなる。アリシアは慎重にダイヤルを回し、バケツに手を伸ばした瞬間の自分の姿を頭に思い浮かべた。

「よし、行くわ!」  
 彼女は意を決し、懐中時計のダイヤルを押し込んだ。次の瞬間、周囲の空間が歪み、彼女の視界は淡い光に包まれた。

 床に転がっているバケツがアリシアの方へ転がってきたかと思うと、水がアメーバのようにバケツに収まり、起き上がり小法師のようにコトンとバケツが立ち上がった。

「おっと、そこだ!」フィリスがアリシアに声をかけた。

 アリシアが懐中時計のスイッチを押すと、周囲はモップがけ前の状態に戻っていた。今度は慎重に、バケツを手に取る前に足元の状態を確認する。床に少し傾斜があることに気づき、アリシアはバケツの置き方を変えた。これで倒れにくくなり、今度こそ洪水の引き金を引かないようにできるはずだ。

「完了!」アリシアは自信満々でフィリスを振り返ったが、主任はまだ渋い顔をしている。

「アリシア、もう一度確認してみろ。修正を加えた後の時間線がどう変わったか」フィリスが促すと、アリシアは再び懐中時計を取り出し、新しい時間線の流れを確認した。

「うっ……まだ、水が少し残ってる……!」  
 パラレルワールドでは、完全には洪水が治まっていないことに気づいた。アリシアは一瞬パニックになりかけたが、フィリスが落ち着いた声で言葉をかけた。

「小さなズレでも、大きな影響を生むことがある。答えとしては五〇点だ。他にやりようはないか?」

 アリシアはしばらく眉間に皺を寄せて考え込んでいたが、突然、ハッと笑顔になると彼女の頭上にピコンッと電球が点灯した。

 アリシアはモップがけのさらに前へと時間を遡った。懐中時計の針を前後して、時間軸のある一点を探り始めた。そしてモップが掃除用具ロッカーに片付けられている状態のところまで遡ると、ここぞとばかりにスイッチを押した。

「さて、お掃除を始めますか」アリシアはモップをロッカーから出す際に邪魔になっていたゴミバケツを足で押し除けた。そしてそのまま、先ほどと同じようにモップをかけ始めた。すると「誰かいるのかい?」と太った家政婦風の女性が不意に扉から入ってきた。「あ、掃除中かね」というと、アリシアが押し除けたゴミバケツを邪魔だとばかりに持ち上げて傍にドンと置いた。「じゃ、頼んだよ」と彼女は立ち去った。

 アリシアはバケツを倒さないよう注意を払いながらモップがけを続けた。あらかじめわかっていればバケツは倒すまい、と思っていたところ、水気で足を滑らせた拍子にモップが手からすっぽ抜けてバケツに当たった。やはりすでに起こった未来は変えられないのかと覚悟した時、小さな奇跡が起こった。先ほど家政婦が移動させたゴミバケツが支えになり、水バケツは倒れなかったのだ。

「やった……!成功、ですよね!」アリシアは喜びの声をあげた。

「なるほどね。君は未来で起こりうる偶然を、過去の偶然を使って打ち消したというわけか。なかなか、勘がいいね。時間の応用調律のやり方はいろいろあって、人それぞれなんだ。力技で時間の歪みを戻す者もいるし、とにかく歪みを起こさないよう慎重に行動する者もいる。でも、一番大事なのは機転だよ。まずは及第点かな」

 アリシアはホッと肩を撫で下ろし、額の汗を拭いた。「まだ研修は終わりじゃないよ。次に進もうか」フィリスの言葉にアリシアは気を引き締めなおした。アリシアのタイムレギュレーターとしての実績は、まだ始まったばかりだ。(次号へ続く)

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