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機械都市の逃亡者 序章

山崎 奈緒 作

序章

事件はある朝突然に

 遠い未来、人々の生活は21世紀とさほど変わっていなかった。街は相変わらず高層ビルに囲まれ、喧騒に満ちている。だが、ひとつだけ違うのは、ロボットが人間と共に暮らしているということだ。家庭では掃除や料理を手伝い、工場では効率的に生産ラインを管理し、街中では警備ロボが治安維持に従事している。ロボットは、人間と対立する存在ではなく、共生するパートナーとしてその役割を果たしていた。少なくとも、表向きはそうだった。

 リサ・トレイシーもそんなロボットと共に働く若きエンジニアの一人だった。彼女は工場の片隅で、今日も機械油の匂いが漂う中、足元に散らばる工具を慌ただしくかき集めていた。手元が滑ってレンチを床に落としてしまうのは、もう日常茶飯事だ。軽く舌打ちをしながら拾い上げようとしたその瞬間、背後から急な声が彼女を引き止めた。

「おい、君!」

 リサは驚いて振り返ると、そこには見知らぬ男が立っていた。男の顔は焦りでこわばり、汗が滲んでいた。

「な、なんですか?」リサは戸惑いながらも、能天気な笑顔を浮かべる。

 男は無言のままポケットから小さなチップを取り出し、リサの手に無造作に押しつけた。何が起こっているのか、リサは全く理解できなかった。男は一言も発することなく、すぐにその場を去ってしまった。

「え、ちょっと待ってください! これ、何ですか?」リサはチップを見つめ、男の背中に声をかけたが、彼の姿はすでに消えていた。

「…まあ、後で調べようかな」肩をすくめ、また工具を拾おうとしたその時、背後でカツンと金属音が響いた。リサが顔を上げると、そこには光る赤い目を持つ警備ロボが立っていた。

「警備ロボ? なんでここに?」リサは不思議そうに首をかしげる。

 すると、警備ロボの赤い目が鋭く光り、次の瞬間、リサは無意識に全速力で走り出していた。なぜ逃げるのか分からない。ただ、本能がそう命じたのだ。

「なんで追いかけてくるのー!?」リサは叫びながら、工具を全て放り投げ、工場の出口に向かって突進した。背後では、無機質な機械音がどんどん迫ってくる。

「おいおい、リサ、どうしたんだ?」出口近くにいたアレックス・フェルナンデスが、驚いた顔で彼女を見た。彼はリサのドジっぷりに慣れていたが、今回はただの冗談ではないと感じた。

「説明は後! 今は逃げて!」リサはアレックスの腕を引っ張り、外に飛び出した。

「逃げる? 何からだよ?」

「分かんない! でも確かに追われてる!」その瞬間、警備ロボの放つパルスガンが金切り声をあげてリサの横の壁面に当たり、音波振動で大きく凹んだ。これを見てアレックスもただならぬ事態だと言うことを理解した。

「とにかく、どこかに隠れないと!」リサは走りながらアレックスに叫んだ。後ろからは、無機質な警備ロボの足音がどんどん近づいてくる。

「隠れる場所なんてどこにあるんだよ!」アレックスは息を切らしながらリサに追いつこうと必死だったが、頭の中ではリサがなぜ追われているのか理解できないままだった。

 アレックスは人間向け配信情報専門のジャーナリストだ。現在この世界の八十パーセントを占めている機械人類は、基地局から無線パルスを発信すればどんな情報やスキル、ニュースも、全てあっという間にプログラムとして仲間に共有することができる。しかし生物の場合はそうはいかず、人間の場合は、ネット配信によって様々な情報を共有という方法をとっていた。人間の娯楽ネタを拾い歩くなかで、機械であれば鉄屑でさえ修理するという天才エンジニア少女リサの噂にぶち当たり、二週間前から彼女のファクトリーに出入りするようになった。しかし彼女の日常はいたって普通の油まみれの日々で、ネタにするようなこともとくになかった。しかし今日は特別だった。

「ノアのところに行こう!」リサは急に思いついたように言った。「彼女ならこのチップの中身を調べられるし、何とかしてくれるかも!」

 ノア・リッジウェイは、リサが昔から頼りにしているバイオハッカーで、コンピューターに関しては天才的な腕を持っている。リサが機械のフィジカル専門であるとすれば、ノアは機械のメンタルの専門家で、気心の知れた仲であった。どうにか彼女のところへ行けば、この状況をなんとかしてくれるはずである。しかし問題は、彼女のところへたどり着くには足がない。警備ロボに追われる中、逃げるための車が必要だ。

「あれだ!」リサは道端に停まっている古いセダンを見つけて駆け寄った。

「おい、もしかしてそれを盗むつもりじゃないよな?」アレックスは目を見開いて驚いた。

「まさかまさか、カーシェアリングよ。手続きは少し強引だけれどね!」リサは十徳ナイフのような特殊な工具を取り出し、車のドアの鍵穴に差し込むと、焼いた帆立のように簡単にドアが開いた。リサはそのまま運転席に潜り込み、ハンドルの根本を手際よくこじ開けると、すぐに配線をむき出しにした。「ほら、これでエンジンを直結できるはず…」アレックスが慌てて訊いた。「直結!?」リサが前言撤回とばかりに言い直した。「あ、メンゴメンゴ。ちょっとしたあやとりみたいなもんよ」リサは配線を引っ張り出し見事な手際で接触させると、一瞬のスパークと同時にエンジンが轟音を立ててかかった。「よし、乗って!」

「お前、本当にただのエンジニアかよ。プロの泥棒でもこんなスマートじゃねえぞ…」アレックスは呆れたように苦笑したが、状況が状況だけに文句を言う暇はなかった。

 アレックスが助手席に飛び乗ると同時に、リサはアクセルを踏み込んだ。車は勢いよく発進し、警備ロボの追撃を振り切るかのように街中を疾走した。しかし、安心する間もなく、背後には警備ドローンが浮かんでいるのが見えた。

「まだ追ってきてるぞ…どうする!?」アレックスはドローンを指さして叫んだ。

 リサは冷静にミラーを確認し、何か思いついたようにニヤリと笑った。「任せて! エンジニアの腕の見せどころよ!」

 彼女は左手でハンドルを操作しながら右手で先ほどの十徳ナイフをドアの付け根に差し込み4、5回ガチャガチャと回すと、ドアがゴトン外れ、走行中の車に置き去りにされて後方に飛んでいった。ほんの数秒の出来事だった。

「何した!?」アレックスが慌てて言う。

「必殺ぅドア・ミサイルぅ! これで追ってきたやつを少しは邪魔できるでしょ!」

 その言葉通り、追跡していた警備ロボの車が車道に放り投げられたドアに衝突し、バランスを崩してスピンし始めた。

「すげえ…」アレックスは息を飲んだ。彼女の手にかかれば車のセキュリティなど関係ない。どんなものだろうがネジがついていれば即座に修理するとの噂だったが、その逆もまた然り、なんでもバラバラにしてしまう。この機械が支配する社会のなかで彼女は、奴らにとって優れた医者でもあり天敵とも言える。二週間、ファクトリーに通い詰めたご褒美としては想像していた十倍の価値だ。

「ま、エンジニアならこれくらいは当然ね!」リサは笑いながら再びアクセルを踏み、車はまた加速した。「そうなのか。もしかしてエンジニィアーを日本語に訳すと危険人物か?」

 しばらくして、二人はようやくノア・リッジウェイが所長を務めるサイバネティックセラピーにたどり着いた。この手のセラピーは最近流行っていて、ロボットがメンタル不調――プログラムエラーなどがあると処置してくれる。ノアはロボット専門のセラピストだ。リサが慌ただしげにドアをノックすると、中から不機嫌そうな顔をしたノアが現れた。

「リサ、あなたがチャイムではなく直接ドアを乱暴にノックするときは二パターンある。ひとつは厄介な問題を抱えている時、もうひとつはものすごく厄介な問題を抱えてる時…」ノアは半眼で二人を睨みながら言った。リサは「どっちも正解! さすがね!」とチップを取り出して、素早く説明した。

「これ、見てくれない? いきなり見ず知らずの男に手渡されて、どうやらこれが原因で追われてるみたいなの。私、ホワイトデーにもチョコ貰ったことないのに」

「知ってるわ。でもあなたにプレゼントを渡したり、それが謎のチップだったり、世の中には相当な変わり者もいるのね」ノアはチップを一瞥した。「いやー、ほんとほんと。私、モテ期到来かなぁ」リサの場違いな能天気さにノアもアレックスもため息をついた。

「分かったわ。調べてみる。けど、リサ、面倒なことなら私は関わらないわよ」

「と、言いつつも〜」

「ほんとに、ノらないわよ」

「なによー。つれないなぁ」

 胡散臭いチップの中身に、ノアとアレックスは不安が、リサには好奇心がよぎった。(次号へ続く)

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