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『霜華剣』 序章

郭文函 作 田中美奈子 訳

序章

 中世、大陸の辺境を意味する江湖は、常に変化と混乱に満ちていた。これは、大陸中央に位置する天朝国と東西南北の異民族の国が、絶えず勢力争いを繰り広げているためであった。

 天朝国は、この時代において最も高度に成熟した大都市であり、皇帝のもとに教育と規則の合理化がなされ、社会秩序と繁栄の象徴であった。しかし、その繁栄をすべての人が享受できるわけではなく、そこからこぼれ落ちた多くの人々は、争いが絶えない辺境で商業や農業、工芸などに従事し生計を立てていた。辺境は、切り立った山々が連なり、川が大地を分け、見渡す限り広大な風景が広がっていた。人々は、その広大な自然の中で必死に日々の生活を営んでいた。

 江湖では特に、剣客と呼ばれる者たちが人々の関心を集めていた。剣客は、剣の腕ひとつで地位と名声を得ることができるため、江湖で成功を夢見る者たちの憧れであった。彼らは、己の武芸を極めるため、また名声を得るために江湖を渡り歩く者たちだ。その剣技は個々に磨き抜かれ、人智を越える域まで達する者も少なくなかった。

 江湖はつまり広大な無法地帯であり、生き延びる術を持たねば死を意味する、ならず者が住まう場所であった。山賊や盗賊が跋扈し、道行く者には常に危険が存在していた。しかしそのような場所でも、街道沿いには小さな村や町が点在し、様々に素朴な人々の生活もあった。農夫たちは大地を耕し、商人たちは交易を行い、子供たちは無邪気に駆け回っていた。江湖の町の日常は、街道を途切れることなく人々で賑わし、多くの足跡を刻み続けていた。

 夜になると、村や町の明かりが灯る茶屋や酒場で、剣客たちの伝説が囁かれるのが常であった。酒の席では、かつての大きな戦いや有名な決闘、伝説の武具や秘伝の技についての話が語られた。これらの物語は、聞く者に勇気と夢を与え、また誰かを新たな冒険へと駆り立てるものであった。剣客たちは酒杯を傾けながら、互いの技を語り合い、競い合った。そんな剣客の様子に、居合わせた人々は息を呑んで見入るのだった。

 江湖の世界では、名もなき英雄たちの様々な物語が泡と湧いては消え、それが歴史という概念が生まれる前から今なお、細い糸のように紡がれているのであった。

出会い


 まだ陽が登りきらぬ薄暗い、霧が立ち込める山道を一人の剣客が歩いていた。李華(リーファー)、若くしてその名を知られるようになった美しい剣士である。彼女は剣を携えた細身の体を白い衣で包んだような出立ちで、旅路を急ぐ歩に合わせ、長い黒髪が風に揺れていた。冷静な瞳の奥には、父親を失った悲しみと復讐の炎が宿っている。

 李華は父親の仇を探し続けていた。その日も、仇の僅かな足取りを求めて山道を進んでいた。道の両側には竹林が広がり、竹の葉が風に揺れる音が耳に心地よく響く。鳥のさえずりと遠くから聞こえる川のせせらぎが、自然の美しさを際立たせていた。

 彼女はふと、背後の気配に気づき立ち止まった。静かに振り返ると、一人の少年が立っていた。彼は青年の背丈には見合わぬ幼ない容姿で、痩せた体に粗末な衣をまとっていたが、その目には鋭い輝きがあった。

「あなたは李華様ですか?」と、少年は声をかけた。彼の声は緊張していたが、決意が感じられた。

 李華は少年を見つめ、冷静な声で答えた。「そうです。何か用ですか?」

 少年は深く頭を下げた。「李華様の至高の剣技の噂を聞いて、ようやく探し当てました。どうか私を弟子にしてくださいませんか?私は一年前より以前の記憶がなく、どのようにしてそれまで江湖を生き延びてきたのか、わかりません。この江湖で生きていく術を教えていただきたいのです。どうか、お導きを。」

 李華は少年の言葉に心を動かされた。彼女は家族を失い、孤独と戦い続けてきた。目の前の少年が自身の姿と重なり、その痛みと苦しみを想像すると、見捨てることはできなかった。

「いいでしょう。ただし、私について来るなら覚悟しなさい。道は険しく、危険が待ち受けています。それでもついて来ると言うのなら、私の弟子として迎えます。」

 少年は感謝の意を込めて深くお辞儀をし、「ありがとうございます、李華様。覚悟はできています。」と答えた。

 李華が、「いいでしょう。で、名前は?」と訊くと、少年は短く答えた。

 「劉辰(ルーチェン)と申します。」

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