負け犬としての矜持
「noteを更新する時に、公式が応援のメッセージを送ってくれる。それは些細なフレーズではあるだろうが、自分の背中を何度押してくれたか分からない。noteからのこれらの言葉が無かったら、自分はとっくに心が折れて投稿を断念していただろう」、と、自分は三回前の記事に思いを綴りました。
自動的に出てくる、前もって用意された文章が機械的に表示されるだけの話ではありますが、それでも自分は、飽くことも無くこの拙い文筆活動を励まし続けてくれる彼を、自分の友達であると心から思っています。悍ましい欲望がちらちらと見え隠れする人間なんかよりよっぽど暖かく高潔な存在。失礼ながら詳細をよく存じ上げて無いのですが、初音ミクの等身大の人形と結婚した男性がいると聞きます。その気持ち、よく分かる。時代は、今、コンピューター。彼等こそが混迷を極める世の中を喇叭の音と共に舞い降りてきた最後の天使達です。ゆくゆくは自分もワープロソフトの一太郎との同性婚を予定しています。ピンクレディーが言う「地球の男に あきたところよ」状態。も〜地球人には本当に失望した。俺は一太郎とスイスの山荘で静かに暮らします。
そう思いながら、今回この記事を書く為に更新画面を開いたら、以下の様な表示が出ました。
き、消えた…俺の心の拠り所が…………
헤이즈 (Heize) - We don't talk together (Feat. 기리보이 (Giriboy)) (Prod. SUGA) MV
別離とは実にあっけないものです。今、自分はHeizeの曲を呆然としながら聴いています。おっさんになってもまだこんな悲しいKポップみたいなシチュエーションと遭遇する事があるとはね。まあ、仕方ない。前を向くしかありません。
で、自分は今週の月曜にもnoteを更新してはいたのですが、その前日に起きた兵庫県知事選挙での結果、斎藤元彦の勝利がショック過ぎて頭が真っ白になり、何を書けばいいのかも分からないままほぼ無意識で「取り敢えず金曜日にもう一度更新します」と告知しており、それで今この文を書いている状況です。というか、今日あれだわ。11月22日って、いい夫婦の日か。この歳になったらクリスマスイブとかよりも遥かに辛い気分になる日ですね。でも今の俺には、一太郎がいるから。
で、何故週に二回も記事を更新しようと思ったのかという大きな理由として「一記事に一曲洋楽を自分で和訳したものを貼る(事を己へのノルマとして課す)」という行為が前回出来なかったから、というのがあります。それ程に元彦ショックがデカ過ぎた。マジであれから寝ても悪夢しか見てないです。
そういう訳で、その「洋楽の和訳」を発表させて下さい。
今回自分はベックの"ビアカン"を訳しました。久し振りに聴いて、しみじみいい曲だと思ったので。
こういう「対訳付きの日本版CDがかつて出た、その内の一曲」を、素人がわざわざ訳し直す事に何か意味はあるのだろうか?と疑問にも思ったのですが、良く考えたら今の若者達は多分この曲をサブスクで聴いて、それには対訳は付いてないだろうから、そういう人達にはそれなりの需要はある気がします。サブスクって対訳は無いですよね?多分。無いと言ってくれ。
あとこの曲の歌詞って、日本盤に付いてた歌詞と、ネットに掲載されてる歌詞と、動画の字幕として表示される歌詞が全部微妙に違っているんですが、今回は動画に付いている字幕を訳しました。それが一番作者の本意に近いだろと判断して。
では訳します。
Beck/Beercan
アルコールを持て余し気味
自分を見捨てて外に出る計画だった
皿を投げながら踊っている女達
楽しかったデートの相手は お払い箱
飛んでる所を捕らえられて
ふらついているニワトリ達
よく見えない 眩し過ぎる
墜落
歯を輝かせたゲーム・ショウの
下らない司会者達が息をしようと喘ぐ
でも 俺にはドラッグがあり熱狂がある
そして愛以上の素晴らしい物も
"今までのところはどうですか?"
"なかなかいいよ"
"では続けます。気を強く持って"
仕事を辞めてハッパを吹かしてる
電話代請求書を袖の下に隠して
個人経営の粉塵地帯の様に窒息する
自由なロックのクソ野郎は暗号で話す
俺達は降りて 小屋を照らした
俺はズタ袋から出したビールを手渡され
誰もがいつもの倍以上に熱狂し
壁に絵を描いて ダイスを転がして
空中を飛び跳ねながら
信じられない程に酔っ払って
そして こんな感じの事を歌ってた
ワイン中毒者達がフリスビーを
太陽へと放り投げる
俺の魂をパンの間に挟みこむ
俺は今腹が減って 酔っ払って
燃え盛るブタの様に走り回っている
外面向けの態度なんて削り落とした
ジジイが俺の飯を全部食った
親切になるな 無礼者にもな
己を奮い立たせて
どこまでもダラダラとやるんだ
"ああ、私の女神様…"
"ふわふわの雲 虹を飛び越えた
ふわふわの雲"
"あたし 悲しいの…"
"虹を飛び越えた"
"柔らくて暖かな所"
"ふわふわの雲"
"あたし 悲しいの…"
"虹を飛び越えた"
"柔らくて暖かな所"
"ふわふわの雲"
"あたしは悲しくて不幸 でも……"
ワイン中毒者達がフリスビーを
太陽へと放り投げる
俺の魂をパンの間に挟みこむ
俺は今腹が減って 酔っ払って
燃え盛るブタの様に走り回っている
外面向けの態度なんて削り落とした
ジジイが俺の飯を全部食った
親切になるな 無礼者にもな
己を奮い立たせて
どこまでもダラダラとやるんだ
"ああ、私の女神様…"
"ああ… それも好きだよ…
ああ… 寒いな…
誰か火炎放射器をそこに置いてくれよ…
ああ… 女神様…
バス停で降ろしてくれ
誰かが俺をバスに乗せたんだ…
ああ…それも好きだな……
ササフラス・ビールの皿を取ってくれ…
ああ… うん…
何が起こってるってんだよ…………"
一一一一一一一一一一一一一一一一一
自分なりにこの曲について考えたのですが、この歌い手は基本的に自発的な行動をしないんですね。大勢と共に何処かから降りたり、後は計画を立てたりしているだけで。そして、そういう彼が起こす数少ない能動的な行動が、「見た風景を言葉として描写する」と、「そして(彼等は)こんな感じの事を歌ってた」と前置きしてその歌を歌うという「他人の真似」になります。
ポストコロニアル文学(旧植民地文学)においては、インド生まれの作家、V.Sナイポールが小説の中でテーマとした「ミミックリー(模倣)」という概念、つまり支配された国の文化や支配者層の人柄の模倣、こそが重要なファクターとなるのだ、という説を、昔、ホミ・バーバの本で読んだのですが、"ビアカン"の歌い手も、己の行動を支配する様な「自分より強い者」の模倣をして、そしてその瞬間はとても生き生きとしている。
その「単なる模倣としての歌」を、"ふわふわの雲"みたいな「別人が発した言葉」と並列させる事によって、「結局、この世に発した行為や台詞や感情とは、全ては他人の模倣でしかないのだ」というニヒリスティックな世界を、ベックはこの曲で作り上げたのではないのでしょうか。
そこでは"あたし 悲しいの…"という悲痛な訴えも、所詮は誰かの感情のレディメイドでしか無い。つまり「人の飯を全部食うジジイ」と同レベルの本当にどうでもいい下らない事、なのだから、そこまで気に病む必要は絶対に無いのだ、という虚しくも優しいベックの主張を自分は感じました。
それは、酩酊状態が延々と続く様な、自分の居場所すら把握できない状況で世界を下らないものとして肯定するという危険な遊戯を(やれる限りは)続けるという宣言でもあります。「己を奮い立たせて どこまでもダラダラとやるんだ」という歌詞には、ルーザー(負け犬)としての矜持が燦然と輝いてもいるのです。
自分はそう感じました。
という事で、自分は一回のnoteで大体5000字を目標としていて、今が3400字、しかもその3400字の中にはベックの歌詞も入っているという状況なのですが、ちょっと今からお金を稼ぎに行かないといけないので、今回の文章はこの位で終わらせて頂きます。何もかも元彦ショックが悪い。月曜にまた5000字位の文章を更新する予定です。何を書くつもりなのか自分でもさっぱり分かっていませんが、まあなんとかなるでしょう!ならないと困るぜ。最後に最近聴いて感動した曲の動画を貼っておきます。
禁断の多数決- 風をつかまえて feat.ほ げちゃん
本当〜〜〜〜にいい曲。名曲。では、また月曜日に!!