モノは生活を変えるのか。そうでないのか。モノを知っている事と持っている事と使っている事は違うのではないか。
あ。これ知ってる!ネットでみた。
友達との会話をしながら商品を見るときについ言ってしまう一言。モノそのものが情報化したことを端的に示していると感じます。
モノってなんなのでしょうか。スタートアップの社長さんたちからは「モノの時代は終わった。これからはコトの時代だ」と聞くようになりました。
モノが多くて片付けられない。という話や、「断捨離」「終活」「ミニマリスト」モノが少ないのが正義。持たないのが正解。
逆にモノにこだわるのはダサい。しつこい。(そこまで言わないか。)
店を運営するにあたって常々気を付けていることは「モノそのものには価値全体の20%しかないよ。」ということ。
あとの80%は?
モノが持つ物語(ブランド、デザイナー、作られた背景、素材、性能など)
モノにまつわる思い出(店員に勧められた。高いけど無理して買った。恐ろしく安く買った。この傷はあのときの。もう何年使っている。毎日つかっている。など)
あなた自身の物語(友人に褒められた。生活のステージがあがった。モノの選び方が変わった。手入れをするようになった。など)
コトの部分からモノを見ると、モノの価値がないようにも見える。この部分だけを切り取れば、モノからコトの時代へ移行する(した)という考え方もできるとは思う。
上で書いたように、モノにはコトの要素が詰まっていて(というかほとんど)、知っているだけ(冒頭の一文)だと、それはただのモノ。又は、モノが持つ物語を知っている。にしかならない。
次に、購入(またはプレゼントされて)し、大切に箱にしまって持っている事は、時間経過とともに忘却装置が働いて、だんだん淡くなっていくことも含めて、モノにまつわる思い出が少し加わる。
僕が大切だと思うのは、あなた自身の物語をどれだけモノに加えていけるかだと思っている。加われば加わるほどその割合は増えるし、モノの価値そのものが大きくなっていく。知れば知るだけモノが持つ物語も大きくなるかもしれない。そうすると、あなたにとって替えのきかない大切なモノに育つはずだ。
あなた自身の物語をつめたモノが身の回りにある人は豊かな生活を送る人なのではないか。それらが手の内に収まる量が適量なのではないだろうか。オーバーフローしてしまったモノは片付かないにつながる。大事なんだけど多すぎるモノがもし増えてしまったら、モノにまつわる思い出の領域まで退がることもお勧めしたい。画像に撮って情報化すること、今使わないものは整理して片付けること。モノにまつわる思い出がだんだん淡くなってきて、心の圧迫を軽くしてくれるはず。
あなた自身の物語が日用品から調度品へ。さらには消耗品まで広がっていくとつま先まで神経が通った(選美眼もふくめて)一本筋が通った空間ができると確信している。
モノがあふれている人は、モノをもっともっと買いたい人は一旦立ち止まって、そこにあなた自身の物語があるのかどうか問うのはどうだろう。
モノが持つ物語だけではなく、モノにまつわる思い出をどれだけ提供できるか。が僕の仕事だ。お客様を騙さない前提で、モノだコトだ。とモノをモノとしてだけ見るだけのつまらない選択肢しか持てないコトへの挑戦をし続けたい。あなたもどこかで肌ざわり感の合う提案者に出会えると幸せだと思う。