【詩の森】648 がんばれ国のがんばれ教徒
がんばれ国のがんばれ教徒
僕らの国では
親も先生も子供たちに「がんばれ」といいます
社会に出れば
上司が部下に「がんばれ」といいます
「かんばるな」といわれるのは
がんばり過ぎて体を壊したときくらい―――
社会人のなかには働き過ぎて
ほんとうに死んでしまう人もいます
KAROSHI―――
僕の仲間も不治の病になりました
それでも
僕らの国の人々は
がんばることが大好きです
この国では
国際試合に参加するスポーツ選手を
「がんばれ、ニッポン」
などといって応援します
もはやがんばれは
国家宗教のレベルなのかもしれません
がんばれ国のがんばれ教徒―――
ところで子供たちの目には
人生はどのように映っているのでしょうか
ひょっとしたら目の前に立てかけられた
梯子のようなものかもしれません
競争社会の序列という梯子です
成績という梯子
収入という梯子
地位や名誉という梯子
それを周りが「がんばれ」「がんばれ」と
囃し立てているのです
がんばれ教の教義では
生活が苦しいのはがんばらなかった自分が悪い
ということになります
周りも「そうだ」「そうだ」といえば
がんばれ教の教徒たちは素直に従うでしょう
いつだったか全てを自分たちのせいにして
生活保護も受けずに餓死した
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だれも救いの手を差し伸べなかったのでしょうか
死んだのは本当に自業自得だったのでしょうか
大企業の意を受けて
1985年にわずか13業種でスタートした
労働者派遣法は業種拡大のすえ
14年後には原則自由化されました
それがこの国のやり方です
派遣労働者のメリットは
低賃金で雇えること いつでも首が切れることで
企業にとっては願ったり叶ったりです
そしてその頃から
自己責任という言葉が流行りだしたのです
僕も10年前にリタイアするまでは
正真正銘のがんばれ教徒でした
それでも数年経つと僕の頭の中から
効率・生産性・売上などといた言葉が
しだい抜けていきました
僕はようやく今ここにいて
光を感じ 風を感じ 目の前にいる人の気持ちを
汲み取ることができるようになったのです
あの頃の僕はプログラムされたロボットだった
のかもしれません
僕はやっと人間に戻れたのです
2024.6.6