幸せはいつだって日常の「気づき」にある

心の不安や傷みは物事の捉え方や考え方一つで変化する。人は皆「幸せになりたい」と願っているという。それなのに、その「幸せのカタチ」とは何なのか、明確な答えは誰にも分かり得ない。誰も知らない「幸せ」を探求しながら生きる私たちの日々。どうしたら「幸せ」になれるのだろうともがく毎日。

いつになったら辿り着けるのだろう。
むしろ、私たちはどこに向かっているのだろう。
お金持ちになればいいのか。
友達100人できればいいのか。
容姿端麗ならいいのか。
既存のカタチどおり生きてりゃ本当に間違いないって言うのか。

一つ一つ悶々とした疑問を胸の内で投げかけながら過ごす日常の中、ありとあらゆる出会いや出来事から「気づき」を繰り返し得ているうちにある時ハッとした。未知のように思えた「幸せ」のヒントが今そこにあるじゃないかと、ようやく気が付いた。

だけれども、日常に散りばめられた「気づき」というものは、それはそれは些細なものであって、「気づき」を受け流してしまったり、概念やら既存のカタチとやらに囚われ過ぎて、あるいは遠くを見据え過ぎて、そもそも気づくことすらできないこともある。本来、気づくことさえできれば直ぐにでも幸せを噛み締められそうな人も、気づくことなく他人を殺めたり自己を殺めてしまうことも多分にあるのではないかと思われる。

本書では、私自身が淡々と過ぎ去る日常生活の中で気付いた「幸せのヒント」をお伝えしようと思う。

―幸せのヒントは実にさり気なく散りばめられている。―


「多様性を認める」の本質って

『多様性をみとめよう。』

最近こういう働きかけが活発化されているように感じる。テレビや雑誌で特集されたり、暇つぶしにYouTubeを見ていると何故かおすすめ動画でいかにも一般人YouTuberによる動画が目につく。

LGBT、HSP、結婚しない、子供を産まない、夫婦のカタチなど、各々のYouTuberが「当事者」としてありのままの自分の姿を紹介している。

そもそも私は、なんでも「人それぞれだ」と思っている。マウンティングや同調圧力が当たり前に行われている学校や会社にいると、心だけはいつも一匹狼だった。

本来、人は「多様性」なのが当たり前であって、今の社会の動きを見ていると、今はその「気づきの時」なんだろうなぁと思う。

今私たちが立たされている「気づきの時」は、きっと変化の前兆だ。今、みんなが変化しようと声をあげている。

「知ってほしい。」
「分かってほしい。」

ずっと心の中で叫んでいたようなリアルな心情をYou TubeやSNSにあげる。すると、共感する人が沢山いることにまた気付く。

じゃあ私達が今まで「良し」として見てきた模範型は何なんだったのだろう?

実はみんな心の中では「違う」と思いながらありきたりな形に自分の姿を落とし込めていたのか。そんなことを長い時間、何人もの人達が繰り返してきたんだ。

You TubeやSNSで必死に発信しようとする姿からは、どこか世の中に対する怒りが感じ取れる。私は必死に発信しようとする彼らの姿を見ていると、何とも言い難い気持ちになる。

もちろん発信することで、世の中の「当たり前」や固定概念を覆していく働きかけは必要なのだろう。ただ、これだけの人達が必死に発信しようとしているということは、まだまだ多様性が当たり前になってはいないんだということを思い知らされることになる。

多様性が当たり前になったら、彼らがあんなに必死に発信する必要もないからだ。

SOSともとれる彼らの発信を見ながら私は、「おおそうかい、そうかい」と思う。発信しようとしまいとも、私から見ればそもそも彼らが彼らでいることは当然のことで、批判もなければ安易な同情もない。

彼らが彼ら本来の姿であることは当たり前なのだから。

ただごく稀にモヤモヤっとする時もある。

彼らの中には、みんなに「多様性を認めて」と言いながら、一方で本人が他人と比較してマウンティングしてしまっている人がいる。自分と正反対もしくは比較対象の人達を悪く言う人もいる。

「これじゃあ結局何も変わらないじゃないか」と、非常に残念に思う。

多様性を認めるということは、自分と正反対の形を比べることなく、自分事と他人事として受け止めることだろう。

と私は思っている。

「よそはよそ、うちはうち」

思春期で反抗期真っ只中だった姉に対してよく母が言っていた言葉だ。


元だんなさんのおじさん


元だんなさんのおじさんが亡くなった。元だんなさんから訃報を受けて、私は家でひとり、泣いた。

おじさんとは、決して親しかったわけじゃないし、多くを語る仲だったわけでもない。離婚した元だんなさんの親戚のおじさんに対して、そこまで感傷的になるなんておかしいと後ろ指を指されるかもしない。それでも、私にとっておじさんは今まで出会った大人たちの中でも抜群に「人格者」だった。

私から見たおじさん
おじさんの第一印象は、なんだか適当でフランクなおっちゃん。大型トラックの運転手をしていた。

結婚当時、田舎に帰省すると、ほぼ必ず家にいて出迎えてくれた。おじさんを見ていると、社会性だとか常識だとか、そういう窮屈な固定概念から解放されるような感覚があって、当時の自分の感覚にはなかった「心の自由さ」を見ているような気がした。

当時22歳そこそこで授かり婚をした新米妻の私は、相手方の田舎へ帰省するとなれば毎回緊張していたのだが、おじさんのそのフランクさと適当加減に、実はいつもひっそり救われていた。

当時の私は、帰省をしたら奥さんは率先して家事をしなきゃいけないとか、愛想よくコミュニケーションをとらなきゃいけないとか、何となく漠然とした「理想の奥さん、お母さん像」に何とか自分を落とし込めようとしていて、大袈裟に言えば、"帰省=今の自分とは違う人間を演じなきゃいけない”という緊張感があった。誰かに強要されたわけでもなく、「何となくそういうものだ」と思い込んでいた。

そんな概念に囚われていた当時の私は、おじさんの魅力に何となく気付きつつも流していた。ただ、おじさんのその心の自由さに、憧れるような、何だか無性にワクワクするような感覚があったことだけは心に残っている。

-おじさんと出会った当時の私-
あの頃、なぜ無性にもおじさんの自由さに惹かれたのかと言えば、恐らくあの頃の私の心には自由さがなかったからだ。

先に述べたとおり、当時の私は、若いなりに「奥さんとして、妻としての役目を卒なくこなさなきゃいけない」という概念に囚われていて、自分の思いで率先して動くというよりも、「理想の型だからやる」という感じだった。今思えば、自分の見え方を無性に気にしていたのだろう。

私の母は、私が子どもだった頃、母として奥さんとしての役目を完璧にこなしていた。家に親戚一同が集まれば、総勢20人分くらいの綺麗に盛り付けられたご馳走をテーブルに並べ、宴会が始まってもせかせかと台所と居間を行き来し、お酒やご馳走を次から次に運び、誰かに「いいから座って喋りましょう」と呼ばれれば、愛想よく談話し、締めにはデザートまで出し、そろそろお暇となればちゃっちゃっと片付け始めた。今思い返しても、ぐうの音も出ないぐらいの"完璧な奥さん”だった。

結婚したら母のようにならなきゃいけないものだと思い込んでいた私は、結婚したその瞬間から、自ら鎧をかぶっていたのだ。

-おじさんのやさしい適当さ-
おじさんの底知れない適当さには、不思議ときつく締め付けられていた私の鎧をゆるませる力があった。それでも、「ちゃんとしなきゃいけない」という概念に囚われていた当時の私は、鎧がゆるんでは締めて、ゆるんでは締め直しての繰り返しで、頑なに完全には外そうとはしなかった。

出会った時から心の奥底では気付いていたはずのおじさんの不思議な魅力。それを表層心理で認識するようになったのは、元だんなさんと離婚してから=鎧をかぶっていたことに気付き、自ら鎧を外し始めてからだ。

離婚してからも、私と元だんなさんとの交流は子育てを通じて今も続いている。元だんなさんの家族との交流も続いている。私は、今の新たな自分の家族のカタチにしっくりきているし、何よりも子どもたちや元だんなさん、元だんなさんのご両親との向き合い方は、離婚する前よりも格段に良くなっている。

一方で、こういう家族のカタチを人に話せば、理解できない人も到底いる。ドン引きする人もいる。「理解されなくても自分なりに周りを大切にしていけばいい」と思いつつも、やるせなくなる時もある。

数年前、元だんなさんのおじいちゃんのお通夜に参列した時、離婚して以来、初めておじさんと会った。なんとなく私たちの事情を知っているおじさんは、いつもと変わらない適当な感じで、「(来てくれて)ありがとうな」と出迎えてくれた。終始、何かを聞くわけでも、諭すわけでもなく、ごく自然に、いつもの適当なおじさんでいてくれた。

おじさんの繊細さ、優しさ、強い芯、そして海のように深い慈愛を感じずにはいられなかった。

-おじさんみたいな人間になりたい-
おじさんは、自宅でひとり息を引き取ったと聞いた。涙が止まらなかった。でも、なんとなくそれもおじさんらしいとも思った。最期まで、おじさんは自分の強さや優しさを見せびらかすことなく自分の胸にしまい込んで、粛々と生き抜いたんだ。

―おじさんへ―

必然だったのか偶然だったのか、私は、あなたと出会い、「心の自由さの魅力」に気付かされていきました。あなたの人に気遣いをさせない”適当な振る舞い”に、何度も救われました。あなたの真の優しさと強さを、私は決して忘れません。

心からおじさんを尊敬します。

偉大すぎて同じようになれるかはわからないけれど、時間がかかってしまうかもしれないけれど、私もおじさんのように、人に気を遣わせず、見返りを求めない真の優しさと深い慈愛を持てる人間になりたいと思います。

おじさん、今まで本当にありがとうございました。


離婚して手放して残ったものはシンプルな愛だけ


世の中には、「こうしなきゃいけない」とか「こうあるべき」という漠然とした固定概念が存在する。

でもこの固定概念というものは案外何てことなくて、何なら生まれ育った環境などによって違うもの。どんなに自分が「絶対こう!」と頑なに思っていても、別の家庭やコミュニティに入れば無用であったり、故郷が違えば通用さえしないかもしれない。国が違えばもはや「きょとん」だ。

それなのに、私たちは気が付かないうちに心の中にあらゆる固定概念を創造している。そして、自ら創った固定概念の縄にぐるぐる巻きつき、時に苦しめられることもある。

私は、22歳で結婚し28歳で離婚した。結婚当時の私を思い返してみると、自ら思い描く「いい奥さん像」や「いいお母さん像」に何とか自分が合てはまるように生きる日々。

いくら育児本を読んだって思うようになんていかない。
憧れのママさんタレントの真似してみたってむしろ自分が自分じゃないようで疲弊する。
どんなに「いいお嫁さん」になりきっても心が追い付かない。
どんなに「いい奥さん」になろうとしたって、意識すればするほど心が遠ざかる。
どんなに「いいお母さん」になったつもりでいても大事な私と子供の心はどこかに置いてけぼり。
どうすればいいの?と、途方に暮れた。

そして私は、あんなに買い読み漁っていた育児本を置き、無理なママ友付き合いを止め、見てくれだけの「いい〇〇像」という固定概念を一度すべて手放した。

離婚して6年。

元夫とはパートナーとしての関係にピリオドを打ち、「親同士」としての関係が始まった。6年の月日の間に、各々の役割を自ら考え行動していくようになった。それぞれの考えをよく聞き、よく話し、尊重し合うようにもなった。お互いの仕事の愚痴を聞き合うこともある。そうしていくうちに、まるで付き合い始める前のような「飲み友達」に戻っていた。

元夫のご両親には、今でも時々子どもと遊んでもらっている。私も年に1、2回ほど顔を出し、話をする。これが結構楽しかったりする。学校などの行事があれば自ら連絡し、来て一緒に見てもらう。

誰に言われたわけでもない。離婚したのだから、別に私がそこまでしなくてもいいのかもしれない。それでも、私の心が「そうしたかった」のだ。

不思議なもので、結婚していた時は、「こうしなきゃいけない」からやっていただけだったのが、離婚して別にやらなくてもいい環境になってからは、「自分がそうしたい」からやるようになった。

結婚、出産、離婚という節目を共に経験して12年の月日の間に、子どもの心を守りたいという私なりの母としての愛、元夫への戦友・いち友人としての友愛、ご縁で繋がった元夫のご両親に対する感謝と情愛が、いつの間にか、確かに私の心に宿っていたのだ。


女性起業家さんとの会話で気付いた子育てで大事なこと

未来ある若い人がまだ成長過程とは言え自他を殺めてしまう近頃のニュースを見る度に、心が痛み、無性に危機感を抑えられない気持ちになる。小学生の息子2人を育てる母親として何をするべきだろうかと考える日々。

そんな中、この半年間のうちに女性起業家さんとお話しさせてもらえる機会が2回程あった。お二人とも40代~50代ぐらい、子どもが2人いるママさん。離婚、再婚も経験しているそうで、私から見ればお姉さま方。

ビジネスウーマンとして明らかなる成功者のお二人。会った瞬間思わず「おお!」と声が出て後ずさりしてしまいそうになるようなオーラを放っていた。威圧感とも言えるかもしれない。

お二人同士が知り合いなわけでもなければ、同じ業種にいるわけでもない。それでも何故だろう?まったく同じオーラを放っているからこりゃまた不思議。喋り方といい考え方というか思想といい、同年代で同じ女性起業家というだけでこんなにも似るものなのかと驚いた。

共通しているのは所謂ネットワークビジネスを展開していること。どちらも女性をターゲット層にしているようだ。私はバツイチ×シングルマザーということであちらは当然ビジネス目的含めて話をしてくれたわけなのだけれども、結論を言ってしまえばどちらも私には残念ながら響かなった。

私がお会いした女性起業家のお二人は、きっと愛のある人なのだろう。とにかく「与えたい人」。母親でもあるお二人は、子供に対しても「与える人」であろうとする。「子供に何でもやらせてあげたい、子供の夢を叶えてあげたい、子供が留学したいと言えば迷いなく出費してあげられる自分でありたい」と言う。そして同じく母親である私に対してもその思いを引き出させた上で、彼女たちのネットワークビジネスに誘い込もうとしてくれたのだろう。

私の心の中→「うんうん('_')・・・・・・ううん(。-`ω-)???」

後から考えてみると、シングルマザーである私には一番響くであろう「決めセリフ」だったのかもしれない(申し訳ない)。もちろん、子供に「衣食住」不自由なく与えてあげたいという母性や責任感はこんな私にだってある。やりたいことを惜しみなくやらせてあげたい気持ちだってないわけでもない。

私自身、奨学金を借りて大学に通い、今でもその返済を抱えながら生活している。自分の子ども時代を振り返ると、私の両親は予期せぬ色んなことが起こり苦しいことがあった中でも、両親なりに精一杯生きながらできる限りで私や兄弟たちに与え育ててくれたことは十分伝わっているし、それでいて恨む思いになんてなりっこない。

むしろ、そこには与えられた物質的な何かとは別に目に見えることのできない両親からの思いと愛があり、また私から両親に対する感謝と愛があって、親から子へ、子から親への愛の循環が確かに成されている。今の私を支えているのは、物質的な支え以上に「愛の循環」の中で知らぬ間に心に宿っていた灯火だ。

「奨学金がなければ」とか「あの時あんなことがなければ」と悲観的になろうと思えばいくらでもなれる。「今の収入で子供の将来が安泰になるように育てられるだろうか」と不安要素をあげようと思えばいくらでもあげられる。

ただね。まず根本として私達は神様と国に守られて生きている。大人も子供も、どんな人も。何かあれば頼る存在(人でも制度でも)もある。いざと言う時「助けて」と言っちゃいけない人なんて誰一人いない。

小さな家だけど、夜温かい布団に入りゴロゴロしながら子供たちと「あ〜最高だね〜幸せってこういうことだよね〜」とよく言い合いながら眠りにつく。時には生き物の命を頂いて毎日の食事がある(生きられる)ことの有り難さをしみじみと語り合うこともある。また、テレビのニュースや特集を観ながら感想やそれぞれの考えを言い合うこともある。

今の私には子どもに全てを叶えてあげられる豊かな財力はないかもしれない。それでも、今ある環境の中で私なりに教えられることを教え、考えるチカラを育み、彼らが今後自分自身で生きていく底力(土台)を養ってあげたいと思っている。

これから彼らが成長するにつれて、他人と比べて嫉妬や渇望心に苛まれることもあるだろう。自分と他人の差に愕然としたり、立場や格差の違いを恨んでしまいたくなることもあるかもしれない。

それでも、彼らの心の根っこに、何者でもない今そこに存在するありのままの自分を受け止めてもらえたことによる「自信」と、当たり前な日常の中に転がっている小さな幸せや有難みに気付く「感性」が、どんな時代背景になろうとも、いつどんな時も彼らにとって「心の栄養」になってくれるに違いない、私はそう信じている。




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