映画「岸辺の旅」のはなし
何年も前にみた映画の話ばかりで申し訳ないですが……。
浅野忠信と深津絵里が主演のこの作品。
淡々とした人々の日常が描かれています。
ただその中に死者が混じっているのですが。
深津江里は個人レッスンのピアノ教師です。
夫の浅野忠信は医者なのですがある時から蒸発して家にいません。
深津絵里は夫がいなくなってからずっとひとりで夫を待っています。
嫌なことがあった日は白玉を作り小豆をかけて食べて忘れようと言う場面が何度か出てきます。みていて気持ちの煮詰まった感じが凄く出ているなぁと思いました。
そんな一見平穏な(!?)日々の中である日ふらりと夫が戻ってきます。
「おれ死んだんだよ」
と。そして、自分の蒸発している間たどってきた場所を一緒に巡ってみないか?と誘います。
色々とお世話になった人に別れを告げて自分もこの世から消えるのだと言うことです。
夫婦は旅を通じてお互いの知らない部分を確認し、お互いに好きであることを再確認していきます。
夫婦とは一体どこまでわかりあっているのだろうか?
私はこの映画をみていてそんなことを感じました。
お世話になった人の中には、自分が既に亡くなっていることを知らない人もいます。
浅野忠信が再び訪れると誰もが歓待してくれます。
不思議な映画でした。
それぞれの家庭にはそれぞれの事情があり、浅野忠信と再び会うことで少しづつ変化があります。
何かが変わったのを見届けて次の場所へ動きます。
先に進むにつれ、夫との別れが近くなっていきます。相手を失うことへの恐れを確認する旅でもあるのです。
淡々として描かれていて途中で席を外したりすると何がどうなったのかもわからない。わからなくても困らない不思議な作品でした。
浅野忠信が何故死んでしまったのか?それははっきりとはかかれていません。
だけど深津絵里が前を向いていける様には描かれていて作品が終わるのは救われた気がします。
この作品はこの二人だから成立したものではないかと思います。
俳優二人の独特の空気感。それがとても映画の内容と合っていました。
これを観て考えたことだったように思う。
最愛の人の最後の瞬間を知らない人は不幸なのかもしれない。
もしも余命宣告をされたとしたら生きている間に幕引きの時間が与えられたと捉えることができたらいい。
死者はかえらない。
しかし最愛の人を自ら見おくることが出来るということは、そうでなかった人たちもいる中で幸福であるということ。
嘆き悲しんで寂しさに潰されそうになりながら、それでも生きているものは生き続けねばならない。
それは死者を忘れないためでもある。
死者とはからだがなくなったもの。だがその存在はその者を知る誰かのこころの中に生き続ける。
生きている者は死者の記憶を背負い生き続ける事になる。
それは生きる上での責任のひとつなんではないだろうか?
日々の生活の中で死者に語りかけ、死者からの声を聞くことが出きるだろう。
それが死者と共に生き続ける事なのだと思う。