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#3 売れないアイドルだった「安室奈美恵」

 1990年代〜2000年代の女性アイドルを振り返る企画「ガールズポップス」。2018年に惜しまれつつも芸能界から引退した安室奈美恵は現在でも楽曲やパフォーマンス、その生き様が高く評価されている。なぜ、彼女はスターになることができたのか。ブレイク前の安室奈美恵について振り返っていく。

沖縄アクターズスクール時代

 1988年に友人の付き添いで沖縄アクターズスクールへ見学に訪れた際に、校長のマキノ正幸からスカウトを受けて異例の特待生として入学した。その後は交通費を節約するために片道1時間半ある距離を徒歩で通っていたという。

 RBC琉球放送のローカル番組内で行われた「ちびっこカラオケ大会」に天久美奈子(後のMAXのMina)と共に出場し、優勝したことで才能が開花した。その後は沖縄アクターズスクールの選抜グループ「クラブハート」の一員として定期公演に出演し、常にセンターポジションに抜擢されていた。

 1990年には20人前後で構成されるSUPER MONKEY’Sのメンバーに選出され、翌年からは安室を含む女子5人と男子2人でスーパーモンキーズスペシャルとして地元のローカル番組を中心に活動を開始した。メンバー全員が琉球空手の初段だったことから番組では空手を取り入れたダンスパフォーマンスをたびたび披露し、東京のテレビ局のスタッフがたまたまオンエアを見ていたことで全国ネットの番組(『天才! たけしの元気が出るテレビ』)の出演が決定した。

SUPER MONKEY'S時代

 1992年に入るとデビューのために上京し、マンションでの共同生活を開始した。SUPER MONKEY’Sは安室奈美恵・牧野アンナ・澤岻奈々子(後のMAXのNana)・天久美奈子(後のMAXのMina)・新垣寿子の5人体制となり、デビュー前はバラエティ番組のアシスタントやロッテ「シリアルアイス」のCMに出演していた。

 1992年9月16日に両A面シングル「恋のキュート・ビート / ミスターU.S.A.」でデビューし、「恋のキュート・ビート」はクイズ番組のエンディングテーマ、「ミスターU.S.A.」のロッテ「シリアルアイス」のCMソングに抜擢されたが、オリコン最高29位と振るわなかった。

 デビューから3ヶ月後には沖縄アクターズスクールのインストラクターに転身するため牧野アンナが脱退した。牧野は後にバラエティ番組やインタビューにおいて「圧倒的なカリスマ性を持っていた安室奈美恵を見てアイドルとしての限界を感じた」と語り、その後は澤岻奈々子(後のMAXのNana)が2代目リーダーを務めた。

  • 1st「恋のキュート・ビート / ミスターU.S.A.」(29位)

SUPER MONKEY’S 4時代

 1993年からはグループ名を「SUPER MONKEY’S 4」に変更し、アニメ『忍たま乱太郎』やロッテ「シリアルアイス」のタイアップに恵まれたが、スーパーマーケットやショッピングセンターの屋上でイベントを行なうなど地道なキャンペーン活動が続いた。年末の『NHK紅白歌合戦』では森口博子の「ホイッスル」にバックダンサーとして出演し、間奏部分ではテロップで“スーパーモンキーズ”と紹介された。

 グループ在籍時はソロタレントとしても活動し、1993年1月期ドラマ『いちご白書』で女優デビューを果たした。『ポンキッキーズ』では鈴木蘭々と共にシスターラビッツとしてレギュラーで出演し、同番組のレギュラー枠は後輩のFolderへと受け継がれていった。

  • 2nd「ダンシング・ジャンク」(68位)

  • 3rd「愛してマスカット」(67位)

安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S時代

 1994年の夏にリリースされた4thシングル「PARADISE TRAIN」からはグループ名を安室奈美恵を中心とした「安室奈美恵 with SUPER MONKEY’S」に変更したが、CMタイアップがありながらオリコン最高137位という自己最低順位を記録し、レコード会社との契約は打ち切り寸前にまで陥った。この状況を打破するために次のシングルはブームが到来するであろうユーロビートに着目し、MAX松浦プロデュースで勝負に出ることになった。

 秋には沖縄アクターズスクールのインストラクターに専念するため新垣寿子が脱退し、入れ替わるように松田律子(後のMAXのLina)と宮内玲奈(後のMAXのReina)が加入して5人体制となった。

 1995年1月にユーロビート路線第1弾シングルとして「TRY ME 〜私を信じて〜」をリリースすると、音楽番組やCMタイアップ、有線放送をきっかけに話題となり、オリコン最高8位、約70万枚を超える大ヒットを記録した。

  • 4th「PARADISE TRAIN」(137位)

  • 5th「TRY ME 〜私を信じて〜」(8位) ※初登場49位

ソロ活動を開始

 1995年4月からは安室奈美恵を除いたメンバー4人でMAXとして活動を開始した。5月10日には「恋するヴェルファーレダンス ~Saturday Night~」でデビューを果たし、その後も安室奈美恵 with SUPER MONKEY’Sとしての活動も引き続き行なわれた。

 夏にはグループとして初のコンサートツアーを3ヶ所で開催し、秋にはエイベックス移籍後初となる小室哲哉プロデュースの「Body Feels EXIT」をリリースした(※MAXは次の「Chase the Chance」までバックダンサーとして参加)。安室奈美恵名義でリリースされた1stアルバム「DANCE TRACKS VOL.1」は念願の1位を獲得した。

 1995年は地元である沖縄でのコンサートが実現し、『日本レコード大賞』では「TRY ME 〜私を信じて〜」が優秀作品賞に選出され、『NHK紅白歌合戦』に初出場を果たすなど大活躍の1年だった。

  • 1st「太陽のSEASON」(5位) ※初登場8位

  • 2nd「Stop the music」(4位)

  • 3rd「Body Feels EXIT」(3位)

  • 4th「Chase the Chance」(1位)

“アムラー”現象を巻き起こす

 1996年も勢いが衰えることなく「Don’t wanna cry」などでヒット曲を連発し、春には全国ツアーを開催。MAXが3rdシングル「TORA TORA TORA」でブレイクすると、安室奈美恵 with SUPER MONKEY’Sとしての活動が徐々に減少していった。夏には安室奈美恵 2ndアルバム「SWEET 19 BLUES」がリリースされ、2週連続1位のトリプルミリオンを記録する快挙を成し遂げた。

 そして9月、女性アーティストとしては史上最年少記録(18歳)となるスタジアムクラスでのコンサートを行ない、この公演をもって安室奈美恵 with SUPER MONKEY’Sとしての活動が終了し、それぞれの活動に完全移行した。

  • 5th「Don’t wanna cry」(1位)

  • 6th「You’re my sunshine」(1位)

  • 7th「SWEET 19 BLUES」(2位)


テレビ番組

  • 『KATO&KENテレビバスターズ』(1992年4月〜9月、TBS) - バスターズガールズとして出演

  • 『ポップジャム』(1993年4月〜1994年9月、NHK) - バックダンサーとして出演

  • 『NHK紅白歌合戦』(1993年12月31日、NHK) - 森口博子のバックダンサーとして出演

  • 『ポンキッキーズ』(1994年4月〜1996年12月、フジテレビ) - シスターラビッツとして出演

  • 『夜もヒッパレ一生けんめい』(1994年8月〜1995年3月、TBS) - 準レギュラー

  • 『ニョキニョキ植物王国』(1994年10月〜1995年3月、テレビ東京)

  • 『THE夜もヒッパレ』(1995年4月〜1997年6月、TBS)

ドラマ

  • 『いちご白書』(1993年1月〜3月、テレビ朝日) - 主人公の親友役

  • 『時をかける少女』(1994年2月〜3月、フジテレビ) - 主人公の妹役

  • 夏・ソリトン『近未来伝承学 20世紀保存委員会「憧れ」』(1994年8月27日、NHK)

  • 『私、味方です』第3話(1995年1月26日、TBS)

  • 『STATION』第3話(1995年1月28日、日本テレビ)

  • 『湘南リバプール学院』(1995年4月〜9月、フジテレビ)

映画

  • 『That’s カンニング! 史上最大の作戦?』(1996年8月公開)

  • 『学校Ⅱ』(1996年10月公開)

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ほりすた
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