タタ村、テュルク愛を語る:テュルクの窓から見る世界はとても楽しい
イセンメセズ!(タタール語で"こんにちは")
まずは上記の挨拶を発音してみてください。
この先の記事を読まなくとも、この挨拶さえ覚えていただければ、この記事を書いた甲斐があったと言っても過言ではありません。
なぜそんなことを求めるかって?
なぜなら、日本語のなかにタタール語由来の語が当たり前に織り交ぜられたり、タタール語学習が現実的かつ身近なものとなった未来を迎えるのが、私の密かな夢だからです。ということで、まずは実践あるのみ。
ところで、この「イセンメセズ」ーー タタール語で綴ると「Исәнмесез」ですが、исән-ме-сез(イセン・メ・セズ)の3つに分解することができます。こうして自立語にいろいろな機能語がくっつく言語のことを膠着語といいますが、タタール語をはじめとするテュルク諸語はまさにこれです。
前回、代表の吉村氏(ウギャーさん)がテュルクとの出会いをテーマに投稿されたので、はてさて私はどう続けていこうか悩ましいところですが、半生記とまではいかないまでも、私も「私とテュルク」について思いつくままに書き散らしてみようと思います。
ところで私自身の半生記に近いものは、博論を書き終えたあとの勢いそのままに、個人のnoteに長々と綴ったことがありました。ランナーズ・ハイ的な勢いを感じます。それはさておき、一見ふざけたタイトルですが内容はいたって真面目な半生記なので、ご関心のある方はこちらもどうぞ。
本業タタール研究者、本職ロシア語講師
前置きが長くなりました。わたくし、タタ村(@tatamullina)といいます。
中の人は社会言語学を専門としていて、とくにタタール・ディアスポラと言語継承に関心があります。掻い摘んで言えば、各地のタタール社会のなかでタタール語がどのように継承されているのか、あるいは継承されていないのか、そしてそうした状況にあるのはなぜか、に強い関心を持っています。
よく聞かれるのは「それでどうやって食べているのか」という問いです。私も、私のような人間を前にしたならきっと同じことを聞きたくなるでしょう。
大真面目に答えると、今は学振特別研究員の制度により生活費と研究費を得ていますが、いかんせん任期付の身分なので、そう遠くないうちにこれから何で食っていくのか具体的に考えなくてはなりません。
将来について考えると、せっかくなら好きなことをしてご機嫌に生きていけたら、という思いが強くなってきました。私が好きなことーーそれはタタールをはじめ、テュルク世界のことば、料理、音楽、文化です。つまるところ、私はこれからもテュルク世界に関わりながら生きていきたいと思い、手探りながら仲間たちとテュル活を始めてみた、というのが正直なところ。
ですので、(今はまだ)タタール語一本で食べられる状況にはありません。私はロシア語で食い扶持を得ています。さしずめ今はポスドク&ロシア語講師を本職としつつ、本業としてはタタール研究者をしているという感じでしょうか。
冒頭で、タタール語の語彙やタタール語を日本社会で身近なものとしたい、という密かな野望を綴りましたが、身近なものとなれば需要が生まれ、私がタタール語を使って何かをする機会も増えるのではないか、という期待もないわけではありません。フフフ。
テュルク諸語のうちトルコ語以外の個別言語を専門とする人のなかには、トルコ語や日本語(教師業)を食い扶持とする人も少なくありません。ところが私はトルコ語専攻ではなくロシア語専攻だったので、ロシア語で食っています。
「筑波大学はテュルク世界の入り口だった」説
なぜロシア語専攻に?そして、なぜそこからテュルク世界の住民に?というのも、よく聞かれる質問です。
当時の実家からもっとも近い国立大学のひとつだった筑波大学での学生生活を始めたのは、2011年4月のことでした。中高時代の私は短波ラジオとそこから聞こえる音楽をこよなく愛するマセた若者で、なかでもスラヴ語の流れるような、柔らかな響きにどうしようもないほど惹かれていました。当時はロシアとバルカン諸国のポップスばかりが詰まったiPodがいちばんの宝物でした。
ロシア語を独学するなかで、私はもっとこの言語を深く理解したいと思うようになりました。そして、当時は中級以上に向けた教材も少なかったので自分で作ろうという気概すら持って、私はロシア語の研究者にならんと進学することにしたのでした。(この詳しい経緯については私個人のnoteからどうぞ)
筑波大学に入学して、ロシア語の授業を担当されていたのがУ先生でした。この頃のУ先生はNIS諸国の大学と学術協定を結ぶことに心血を注いでおられたこともあり、ちょうど私が学部時代を過ごしたあいだは特に、次から次へと各地の大学との学術交流協定が結ばれ、ロシアに限らず広く「ロシア語圏」と呼ばれる地域から来た留学生と出会う機会に恵まれたのでした。中央アジアの人々が話すロシア語との出会いは、当時、ロシアのロシア語やその文化だけを見てきた私にとっては新鮮なものでした。
何が具体的に新鮮だったかといえば、もちろん留学生の大半は「ロシアのロシア語」を基準とするならば「文法的な」「知識人的な」「美しい」ロシア語を話す人々ですが、若い世代のなかにはロシア語を不得手とする人もあり、かれらは学習者が「間違い」とされるロシア語を当たり前のように話していた・書いていた点にあります。たとえばмолоко(牛乳)をモロコと発音したり、спасибоをспасибаと綴ったり、もっとすごいものだと、вообще молодец!をвапше маладес!と綴るといったものです。
たとえば英語もそうですが、実際的には世界のあちこちにさまざまな英語を話す人がいるにもかかわらず、アメリカやイギリスの英語こそが正統で、すべてであり、それ以外は邪道だと思われがちです。当時の私は視野の狭さから、ある種の帝国主義的思想がそこにあることにすら気付かずにいましたが、このとき初めて実際のロシア語の世界というのは実に多様で、どれが間違っている、正しい、というのは実にナンセンスで、まるで現実が見えていないみたいだ、と思えたのでした。
(もっとも、今の私はロシア語の授業を受け持つなかで「正しい」とされるロシア語の文法や発音を教えるわけですが、こうした背景から葛藤も抱えています)
おそらく、当時の筑波大学にはロシアやベラルーシなどスラヴの国々出身の学生と同じくらい中央アジア出身の学生たちがおり、そして彼らの多くは家族を伴ってくるので、学内外で中央アジア出身の人々と出会う確率は非常に高く、この頃の私にとってのロシア語を話す人々といえばかれらでした。
私は日夜ロシア語の学習に全力投球していましたが、辛抱強く付き合ってくれたのはいずれも中央アジア出身の学生だったという点も大きいでしょう。
こうしてロシア語を介して中央アジア出身の学生やその家族と交流をはかるうちに、かれらの言語や文化、国に興味を持つようになり、知らず知らずのうちに私はテュルク世界の扉を開いていたのかもしれません。
その後、当初はウクライナに留学するはずだった私は、運命的なものに突き動かされるようにウズベキスタンの首都タシケントに留学することになるのですが、これもひとえに筑波大学がやたらとNIS諸国に協定校を持っていたおかげだったと言えるでしょう。テュルク世界へとつながる扉は、明らかに、当時の筑波大学にありました。
「彼は本物のタタールになる機会を手に入れた。いいなあ・・」
その当時出会い、今に至るまで深い付き合いが続いている友人に、ウズベキスタン出身のイルミラ(仮名)という女性がいます。彼女はことあるごとに私の綴る文章に登場してきましたが、それほどまでに私の人生に大きな影響を与えた存在です。
彼女の民族的出自はタタールでした。私自身もタタールの祖母を持つことから、ちょうどその頃は青年期特有の「自分とは何者なのか」という自問をくり返す年頃でした。同い年の彼女もまた同様の悩みを抱えていたこともあってか、お互いに精神的に深く関わり合うようになるまで長い時間はかかりませんでした。
イルミラはタシケントに生まれ育ち、これまでの教育のすべてをロシア語で受けてきたといいます。彼女の第1言語はロシア語で、タタール語は「母語」(родной язык)と考えていますが、タタール語で知っているのは、冒頭で紹介した《Исәнмесез》(こんにちは)と、《Әни, миңа ипи бир әле》(母さん、私にパンをちょうだいな)というドラマで聞いたらしいワンフレーズ、それからいくつかの有名な民謡の詩だけです。ゆえに彼女は「私はタタール人なのにタタール語を知らない」とたびたびおどけたように言うのでした。
そしてある日、イルミラが「そういえば」と思い立ったように話したことが、その後の私の生活を一変させることになったのでした。2012年、ウズベキスタンの首都タシュケントでは無料のタタール語講座が開講される運びとなり、彼女の弟がそこでタタール語を学び始めたといいます。
彼女の呟きを聞きながら、私の頭のなかは疑問でいっぱいでした。
なぜタタールという意識を持ちながらも、イルミラにはタタール語を学ぶ機会がなかったのか?彼女の弟はなぜタタール語を学ぼうと思ったのか?誰が、なぜタタール語の講座を開いているのか?本物のタタールとは何か?タタールらしいとは何か?
この時から私は、これらの問いの答えを知りたくてたまらなくなり、結果的に博士論文に至るまでの研究はすべてこの問いに捧げることになったのは、また別の機会にお話しするとしましょう。
ところで、あなたはタタールの血が流れているからタタールの研究をしているのね、と短絡的に思われがちですが、祖母がタタールだったことが私の現在に直接的につながっているかと問われたらたぶんそうではなく、あくまで単なる偶然に過ぎないとも感じています。それ以上に、筑波大学で中央アジア出身の友人たちと出会ったこと、なかでもいちばん仲良くなったイルミラと出会ったことのほうが直接的な影響としてははるかに大きく、たまたま私にタタールの血が多少なりとも流れていることには、数奇な運命的なものを感じるばかりです。
ロシア革命と、タタール・バシキールと、わたし
せっかくですから、日本のタタールにも少しだけ触れておくとしましょう。たいへん大袈裟に言えば、ロシア革命がなければ私は今こうしてテュル活をしていなかったことでしょう。否、そもそも生まれてすらいなかったかもしれません。
戦前、ロシア革命の混乱から逃れて極東に到達した人々といえば白系ロシア人ですが、逃れてきたのはいわゆるスラヴ系の人々だけではありませんでした。当時、ハルビンやハイラルを経由して日本にやってきたタタール人・バシキール人についてはあまり知られていません。かれらは「在日タタール人」だとか「滞日タタール人」と呼ばれ、当時の日本社会が初めて出会ったムスリムの集団でもありました。
在日タタール人については以下に紹介するような書籍などを各自参照していただくとして…
私の祖母もまたタタール人で、タタール語話者でした。いわゆるクォーターの私は長らく「自分が何者であるか」という悩みを抱えており、「タタールらしくない」という悩みを抱えたイルミラとよく気が合ったのだろうと思います。
祖母の両親(つまり私にとっての曽祖父母)は激動の時代の波に乗って日本にたどり着いた在日タタール人で、現在のロシア連邦バシコルトスタン共和国北西部に位置するイレシュ地区のあたりにルーツがあるといいます。
1935年、横浜に生まれ育った祖母がどんな子供時代を過ごしたのかは、今となっては記録が残っていないため分かりません。ただ、戦中から戦後にかけてたいへんな時代を過ごしたのは確かなことのようでした。そのような時代ではありましたが、家庭内では日本語とタタール語が話され、さらに曽祖父は仕事の都合でロシア語に堪能だったこともあり、祖母は日本語とタタール語、ロシア語を使う言語環境で育ったようです。
私が子供のころ、祖母はおそらく日本語を最も流暢に話しましたが、タタール語にも強い愛着を持っていたのか、よくタタール語の歌を歌っていた姿が思い出されます。
ただ、当時祖母が歌っていたのがいまの「タタール語」だったかについては、現代タタール語(つまりカザンのタタール語)の知識をそれなりに身につけた今となってみれば疑問に思います。祖母のタタール語には、今思えば、バシキール語的要素を多分に含むものでした。
たとえば、祖母が好んで口ずさんだ歌に「Шәл бәйләдем」(ショールを(私は)編んだ/ショール「編む」-過去-1人称単数)という古い歌があります。これは今のタタールとバシキールの両民族に愛される歌ですが、バシキール語ではやや綴りと発音が変わり、「Шәл бәйләнем」となります。思えば、祖母は「シェル・ベイレネム」(Шәл бәйләнем)と歌っていた気がするのです。
この歌が初めて世に出たのは、祖母が日本で生まれた1935年にウファで「バシキール民謡集」(Башҡорт халҡ йырҙары)として出版された本に掲載されたときのことでした。つまり、元はバシキールの歌だったものが、やがてタタールの世界にも輸入されていったということなのでしょう。もっとも、今となっては祖母が話したのがタタール語だったのか、それともバシキール語だったのかを確かめる術はありませんが…
ユーラシアの諸言語、それは広大なパズル
ところでタタール語では「Шәл бәйләдем」、バシキール語では「Шәл бәйләнем」のように、タタール語を知っていればバシキール語を、その逆にバシキール語を知っていればタタール語をある程度理解することができます。
これはタタール語とバシキール語に限った話ではありません。テュルク諸語に分類される言語はユーラシア大陸の広い範囲で話されているにもかかわらず、その分布の広さの割にはそれぞれの差異が大きくないと言われています。つまり、別のテュルク語を読み聞きしたときに、たとえこれまでに知らなかった言語であったとしても意味の類推が容易にできることがあるのです。(ただ、できないことも普通にありますので注意が必要)
これについては以前、ウギャーさんが記事を書いておられるので、ご関心のある方はぜひ。
たとえばWikipediaで「Turkic languages」のページを開くと、以下のような表を見ることができます。
よく目を凝らしてみると、異なる言語にもかかわらず、似通った語彙がたくさんあることに気づくでしょう。もちろん、まったく違った響き・綴りの語彙になっていることもありますが(というかそのほうが多い)、同じような綴りのもの、母音や子音がやや異なるものの近い綴りのものも少なくありません。たとえば多少のタタール語とウズベク語の知識を持つ私は、まったく学んだことのないはずのアゼルバイジャン語がときどき断片的に理解できることがあり、そんなときに「パズルのようで、なんと楽しいのだろう!」とときめいてしまうのです。
ゆえに、テュルク世界を横断するようにいろいろな言語のポップスを聴いてみるのもとても楽しく、個人的にはたいへん心躍る時間です。ところでテュルク世界にはたくさんの優れた歌い手がおり、いつか友の会のnoteでもあれこれご紹介したいところ。
歌といえば、テュルク世界ではどこかで流行した歌が言語を超えてカバーされることがあり、これもまたテュルク諸語を学ぶうえでとてもワクワクする出会いとなります。個人的には、カザフスタンで流行した「Қайда?」(どこ?)という歌がバシキール語でカバーされているのをたまたま聴いたときには、それはもう、震えました。
カザフ語とバシキール語は、テュルク諸語のなかでもキプチャク語群に分類される言語なので、異なる言語ではあるものの共通点が多いとされます。実際に、こうして詩もそのまま翻訳してカバーをすると、その近さがとくに際立つようでぞくっとしませんか。私はぞくっとします。
広いが繋がっているテュルク世界に迷い込むと、ああ、なんと楽しいのだろう。私はこの世界に足を踏み入れて、人生の楽しさと豊かさの両方を手に入れたような気がしています。
テュル活と、テュルキストたちの未来を見据えて
冒頭で「私とテュルク」について思いつくままに書き散らすと宣言したとおり、はたして、本当に無秩序に書き散らした記事となりました。これもすべては愛の暴走がなせる技。
せっかくなので最後にあらためて、もう少ししっかりと明言しておきましょう。
私が目指すのは、冒頭でも触れたように、「テュルク世界に関わりながら生きていく」ということにあります。テュルク世界に関わりながら生きていく・食っていくなら色々な方策があるでしょうーーたとえば、パッと思いつく限りでも、大使館で働くとか、トルコあたりと取引のある物流業界に携わるとか、なんらかのテュルク諸語の講師をするとか、あるいは現地で日本語講師をするなどなど。その関わりかたは無限にあると思われますが、個人的には、せっかく今日本に暮らしているので、日本でテュルク世界の裾野を広げるようなことができれば、と思っています。
私の場合はどうしてもタタールやウズベクなど、自分が深く関わりのあるテュルクの窓からの発信にはなりますが、ここから少しでもテュルク世界に親しみを覚える人を増やしたい。テュルク仲間を増やしたい。仲間がたくさんいれば、何かいいアイデアも浮かぶかもしれません。また、テュルク世界のなんらかの需要が生まれたなら、テュルク仲間の食い扶持にも繋がっていくかもしれません。何はともあれ裾野を広げていくこと。仲間を増やしていくこと。まずはこのあたりを細々とでも狙って、テュル活に勤しんでいくとしましょうか。
(文:タタ村 a.k.a. サクラマミズキ:「テュルク友の会」副代表)