倫理政経ポイント解説(政経⑩)
こんにちは。今回は現代の国際社会の成立までを解説します。
国内法と国際法
●国際法の成立
国際法は「国際法の父」とよばれるグロティウスによって理論的に体系付けられた。
国際法は大多数の国家の一般慣行である国際慣習法と、国家間の意志を明文化した条約から成り立っている。
※1928年戦争は国際法で違法化された
●国内法と国際法の違い
国内法 国際法
法の種類 憲法・法律・条例等/国際慣習法・条約
立法機関 議会 /なし。(国家間の合意や条約はある)
司法機関 裁判所の管轄 /当事国合意に限り国際司法裁判所が管轄
行政機関 政府 /なし。(ただし国際機関が一部補完)
法の執行機関 /なし。(ただし国際機関が一部補完)
国際間の争い
●国際裁判所
①常設仲裁裁判所
事務局はオランダのハーグ。
そのたび法定が設置される(常設の裁判所はない)。
②国際司法裁判所
国家だけが当事者となることができ、国際社会の最も中立的かつ公平な機関と認められている。しかし、裁判は両当事国の合意を必要とするために裁判を行うことが困難であり、法的拘束力を持つものの強制力が弱いなどの問題点がある。
③国際刑事裁判所
紛争における個人の責任を問う。
アメリカ・ロシア・中国・インドなどは未批准(日本は2007年に批准)
④国際海洋法裁判所
海で起きた紛争を解決する。
※国際刑事裁判所の前身として国際戦犯法定というのが開かれていたこともある。
国連
●勢力均衡と集団安全保障
同盟同士のバランスを保つのが勢力均衡
チーム① チーム②
A D
B 対立 E
C F
みんなで協力して悪い事しようとする国を倒すのが集団安全保障
A
↑
B→ 安保理 ←F
↗ ↑ ↖
C ↑ E
D
●国際連盟(1920)
カントの『永久平和のために』などにあらわれた平和思想を具体化。
ウィルソンが提唱した14か条の平和原則に従って進められたパリ講和会議で創設。
しかし以下の問題点と第二次世界大戦によって崩壊した。
①全会一致制のために会議が難航。
②経済制裁しか行えなかった。
③アメリカやソ連の未加入
●国際連合(国連)
ヤルタ会談(1945)にて成立(原加盟国は51)
国連の目的として
①国際社会の平和と安全の維持
②諸国間の友好関係の発展
③経済的・社会的・文化的・人道的な面での国際協力の推進
が挙げられる。
国連の機関として
総会・安全保障理事会・経済社会理事会・国際司法裁判所・信託統治理事会(1994年パラオ独立から休止)・事務局の6機関とその下部の委員会で構成される。
・総会
全加盟国によって構成。
投票は一国一票制で一般事項は過半数、重要事項は3分の2以上で議決される
年に1回の通常総会と加盟国の過半数または安全保障理事会の要請があった場合に開かれる特別総会がある
・安全保障理事会
アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国(ゴロとしてアフロ注意やcafeRなどがある)の常任理事国(5大国)と、総会で選出された任期2年(連続再選不可)の非常任理事国10カ国によって構成される。
安保理の手続き事項(会議の開催など)は9つの理事国の賛成で決定できるが、それ以外の実質事項は拒否権をもつ全ての常任理事国を含む9カ国の賛成が必要。
※平和のための結集決議
1950年拒否権の濫用による安保理の機能停止を解決するために、緊急特別総会で3分の2以上の加盟国が賛成すれば平和維持活動を行えるという決まりを作った。
・経済社会理事会
国連の委員会や機関の活動の調整と、国際社会で起こる経済・社会問題に対処している。
PKO
基本原則
①関係国の同意を必要とする
②中立性を保つ
③自衛以外の武力を行使しない
※国連憲章に規定されている国連軍はこれまでに創設されたことはない。
武力行使を必要とする場合には多国籍軍が派遣される。
冷戦体制
●冷戦の始まり
第二次世界大戦後から1980年代までの時代を冷戦時代とよぶ。
戦後のヤルタ会談(1945)からヨーロッパ大陸での支配権を巡ってソ連とアメリカが対立。
イギリスの前首相チャーチルはソ連がヨーロッパを東西に分断する「鉄のカーテン」をおろしていると批判。一方でソ連は1948年にドイツを東西に分断し冷戦の時代が到来。
アメリカは1947年に共産主義勢力を封じ込めるためにトルーマン・ドクトリンを、西側勢力の経済支援のためにマーシャルプランを実施した。
ソ連はこれに対抗して1947年にコミンフォルムの結成と1949年にコメコンを設立。
ヨーロッパ西側の資本主義諸国は北大西洋条約機構(NATO)を作り、ヨーロッパ東側の社会主義諸国はワルシャワ条約機構(WTO)を作成した。
米ソの代理戦争として朝鮮戦争やベトナム戦争などが起きた。
また、民衆の暴動によってヨーロッパ東側ではハンガリー動乱(1956)などが発生。ドイツでは冷戦のシンボルとなる「ベルリンの壁」が築かれた。
●緊張緩和(デタント)と多極化
ソ連のフルシチョフはスターリンを批判し、1959年には平和共存政策を提唱してアメリカを訪問、東西貿易が再開された。しかし、1962年ソ連がキューバをミサイル基地化しようとしたことによって起こったキューバ危機により核戦争が勃発しかけた。この事件をきっかけとして米ソは首脳間の直接連絡回線(ホットライン)の設置や、部分的核実験禁止条約(PTBT)を調印。
対立の一方で緊張緩和(デタント)の動きがみられた。米ソの緊張緩和によってチェコスロバキアではプラハの春という自由化の動きが始まった。
・多極化とは
→日本や西欧の米ソ以外の諸国が経済発展によって力をつけ、それぞれの路線を走り始めたこと。
●冷戦の終結
ソ連アフガニスタン侵攻(1979)以降緊張緩和は停滞し、米ソのミサイル開発が激化するなど「新冷戦時代」を迎えた。
しかしソ連ではゴルバチョフが書記長に就任すると、ペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(情報公開)など内部の政策に加え新外交としてアメリカとの間で軍縮を行った。1989年にはアフガニスタンから軍を撤退させ、マルタ会談によって冷戦が終結した。1990年には東西ドイツが統一し、1991年には独立国家共同体(CIS)の発足とともにソ連が崩壊した。
●冷戦後の国際社会の動向と今の課題
冷戦の終結による影響として
①資本主義VS社会主義の終結
②米ソの援助を失った第三世界での権力闘争などによって民族や宗教の対立、難民問題などが生まれた。
③民主主義と人権意識が世界的に広がった。
また、アジアでは1967年東南アジア諸国連合(ASEAN)や1994年ASEAN地域フォーラムなどが発足。
今日の国際社会では
アメリカ同時多発テロ事件などを代表とするテロの多発
情報化による民衆の連帯によるデモによる改革(アラブの春が代表例)
宗教や民族対立などが起きている。
※第三世界の動向
アジア・アフリカの国々が東西対立に巻き込まれないように非同盟中立の立場を打ち出し、1954年にインドのネルーと中国の周恩来が平和五原則を打ち出し、1955年にはアジア・アフリカ会議(バンドン会議)で平和10原則をうちだした。1960年にはアフリカの多くの国々が独立し、国連加盟を果たしたことから「アフリカの年」といわれた。
その後1961年に非同盟諸国首脳会議を開催したり、産油国が石油輸出国機構(OPEC)を作るなど独自の第三世界を形成していった。
今回は以上です。次回は国際社会の課題と今後について解説します。閲覧ありがとうございました。スキしてくれると励みになります。参考になれば幸いです。
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