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ぼくの休日の過ごし方

2019年6月21日(金)のぼくの日記です。ほとんど古墳と古代を巡る内容で、さいごに村上春樹のラジオについてもすこし。

Part1 ある日の休日のはじまり

 ぼくは昨日、親知らずの抜歯手術を受けた。残っていた右の親知らずを、上下とも一気に抜いた。普通の歯医者では抜くのがむずかしかったので県立病院の歯科口腔外科で手術を受けて、今日は術後の経過観察のため朝から病院へ。そのためにわざわざ平日に二日間休みを取ったのだ。とくに問題はなさそうでよかったが、しばらく口の中は血の味がするし、抗生物質と痛み止めが欠かせない。

 せっかく朝から動きだした休日だったので、診察のあとちょっと足を伸ばして小松市にある河田山古墳群へ行ってみることにした。

Part2 河田山古墳群と小さな資料館

 河田山古墳群は、いわゆるニュータウン的な住宅街のなかにある。ここにはかつて60基余りの古墳があったのだけれど、そのほとんどは宅地開発で潰されてしまった。そのほんの一部が住宅街の外れに公園となって、おまけみたいに保存されている。大きな古墳や特徴のある古墳があるわけではない。けれどぼくとしては、住宅街のなかにある古墳、住宅街と共存している古墳ということで前々から興味があった場所だ。

 近くまで着くと、あたりにはきれいに整備された住宅が建ち並んでいる。その入り口付近の一角に、古墳付きの小さな公園があった。


 ここには史跡資料館もあるので、その駐車場に車を停めてまずは公園のそばにある高台に登ってみる。そこが保存されている古墳で、上の方は展望台になっていた。

 今日はくもりで見えなかったが、晴れていれば白山が一望できるロケーションだ。住宅街にあった古墳が移設されて、石室とともに復元されている。しかしこういう移設された古墳というものはなんだか味気がないもの。隣には前方後方墳と方墳とがそれぞれ一基ずつそのまま残されているけれど、これは看板がなかったらほとんどわからないような代物だった。

 資料館に行ってみるとやさしい近所のおばさんのような人が出迎えてくれ、簡単に説明もしてくれる。聞くとその人はほんとうに近所に住むおばさんだった。店番のようなものだから、専門的なことはほとんどわからない。訪れた人の方が詳しいことも多いのよウフフ、と笑う。
 彼女はこの資料館に勤めるようになるまで、自分たちの住んでいるところにかつて古墳群があったことすら知らなかったのだそうだ。つまり住宅街のなかには古墳があった痕跡はまったく残っておらず、この公園と資料館だけがその姿を今に伝えているというわけだ。
 ぼくはこういう小さな史跡や遺跡にあるこじんまりとした資料館の雰囲気が大好きなので、じっくりと堪能させてもらった。

 それから住宅街のなかを歩いてみた。たしかに、そこに古墳群があったことを示すようなものは何ひとつない。バラの庭園付きのわりと見栄えの良い家(ただし、もう見ごろが終わって枯れ始めている)や、ごく普通の一軒家が並んでいて、ところどころに空き家らしき物件やたんぽぽの咲き乱れる空き地があるだけだ。

 この住宅街のなかにカフェスペース付きのケーキ屋さんがあるということを事前に調べてあったので、そこに行ってみることにする。

Part3 住宅街のなかのケーキ屋さん

 こんなところにケーキ屋なんて、ほんとうにあるんだろうか。儲かるのかな、と思っていたが、その店はグーグルが示したところにちゃんとあった。

 菓子工房Yodogawaというお店だ。

 こじんまりとした店内に入ると、蝶ネクタイに黒いベストの店主がにこやかに出迎えてくれる。一目見ただけで思わずマスター、と呼び掛けたくなるような雰囲気の、とても紳士的な年配の店主だった。
 ケーキは種類こそ多くないもののどれもこだわりが透けてみえるもので、値段もなかなか。ぼくはチーズケーキとアイスコーヒーを頼んで着席。目の前には安野光雅さんの絵本が置いてあった。とてもこの店に似合うセレクトの本だ。
 しばらく待っているとケーキとアイスコーヒーが運ばれてくる。サービスで加賀棒茶と抹茶のクッキー付き。

 アイスコーヒーはたしか700円くらいしたけれど、ちゃんと一杯ずつ淹れているようでとてもおいしかった。もちろん、チーズケーキも。ごちそうさまでした。

Part4 小松市埋蔵文化財センター

 それから小松市埋蔵文化財センターへと向かう。埋蔵文化財センターという施設は(たぶん)どんな市町にもあるはずだけれど、実際に行ったことのある人は少ないのではないかと思う。ぼくは小さな資料館と並んで、地域の埋蔵文化財センターに行くのも好きだ。無料のところもあるが、ここは展示観覧で100円取るかわりに、オリジナルのしおりとポストカードを一枚選ばせてくれる。かわいい勾玉のしおりを貰っておく。ちなみにこのしおり、裏面を見たら「しおり3枚でプレゼント進呈!」と書いてあった。いったいなにが貰えるんだろう? 夢がふくらむ。

 ちょうどお昼時だったのだが、説明をお願いしたらMさんという若くて感じのいい職員が出てきて、展示室で丁寧な解説をしてくれた。

 こういう行政のちゃんとした施設で働いている職員はいうまでもなく考古学の専門家であり、市民にその姿を広く知ってもらうことをなにより望んでいる。これまでも似たような施設を方々で訪ねてきたけれど、誰一人の例外なく説明を面倒くさがったり、訪問を歓迎しないような人はいなかった。きっと、こういう施設を訪れる人自体が少ないということもあるのだろう。みんなにこにこして出迎えてくれて、古墳に興味があって来たんです、なんて言うと喜んで詳しい話をじっくりと聞かせてくれる。ぼくはそんな彼らのことを深く尊敬している。こういう施設を訪れて彼らと古代の話をするのは、もうほとんどぼくの趣味と言ってもいいくらいだ。

 このMさんもそういう熱意を持った人であることが話しぶりですぐにわかったので、気になったことをあれこれ質問していたらあっという間に一時間半近く経ってしまった。ぼくもわりと古墳には熱心に足を運んできているので、少しは彼らとも共通の認識を持った話ができるようになっているようだ。自慢じゃないけれど、さいきんは話しているとどこの職員の方ですかとか、何を専門にしているんですかとか聞かれるようになった。
 ぼくが「いえいえ、ただの古墳が好きな一般人なんです…」と答えると、いったいなぜなのかわからないけれど、みんなキツネにつままれたような顔をする。ぼくの答えに納得がいかなかったのか、「あなたはどうしてまた古墳なんかが好きなんですか?」とどストレートに訊かれたことすらある。いやいや、あなたも古墳や遺跡が好きで職員にまでなったんでしょうと思うのだが、きっとそういうことに興味を持って訪れる一般の人は、もっと年配の方が多いのだろう。

Part5 古墳を巡る会話

 それはともかく、Mさんからはいろいろと興味深い話が聞けた。このあたりは古墳時代、碧玉の一大産地であったこと。石を石で削って加工する、碧玉アクセサリーの作り方。同じくこのあたり一帯は弥生時代から須恵器の生産がさかんで、そのため埴輪も須恵器と同じ製法で焼かれていること(ふつうの埴輪は明るい赤茶色だけど、ここの埴輪は須恵器と同じで色が黒い。そのおかげだろうか、保存状態がとてもよかった)。そしてその古代からつづく焼き物の歴史は、そのまま九谷焼まで繋がっているんです、と彼は言う。それはすごい、とぼく。

 古墳時代の中央であったヤマト政権は、地方の豪族たちに武具や三角縁神獣鏡などの宝具を譲渡することで支配を進めていた。面白いのは、武具といってもワンセットで発掘されるとは限らないこと。むしろ、すべて揃って出土するのはかなり稀なことらしい。ここから導き出される答えは、甲冑から兜、すね当てまでワンセットで譲渡している場合もあれば、甲冑だけとか、すね当てだけ譲渡されることも多かったということだ。おそらく、地方の豪族がそのまた下の豪族に譲渡するというケースもあったのだろう。お前はまだ弱小だから兜だけやるわ、とか、そういう具合に。だけど下手にすね当てだけもらっちゃったりしたら、逆に周りからバカにされそうな気がする。やい、すね当て野郎、とか呼ばれたりして。そういえばドラゴンクエストでも、ロトシリーズや天空シリーズがいっぺんに手に入ることはなかったな。さすが堀井雄二である。

 Mさんの専門は古墳時代で、とりわけ横穴式石室の研究を専攻しているらしい。一口に古墳時代が専門と言ってもいろいろあるのだ。きっと埴輪専攻とか、被葬者推定専攻とかもあるのに違いない。
 そんな彼によると、古墳を作る土木技術は大陸から渡来したものだが、石室を作る技術は古墳作りと一緒に大陸から伝播したパターンと、現地の土木技術で独自に発展したパターンとがあるそうだ。小松市に現存する古墳は古墳時代の初期と後期ばかりでその間が失われているので、どちらのパターンで発展したのかじつはよくわからないのだという。

 ぼくは古墳が好きだし石室を見るのも好きだけれど、正直そんなのどっちでもいいんじゃないですか、とは楽しげに語る彼の前ではとても言えなかった。

Part6 渡来人を巡るふたつの疑問

 また、このあたりの飛鳥時代の集落遺跡からは朝鮮半島の文化であるオンドル式床暖房が取り入られたものが見つかっているらしい。それは渡来人が日本に融和していくなかで失われていったのだが(あるいは当時の日本は床暖房を必要とするほど寒くなかったのかもしれないけれど)、彼らの住まいとその立地からは現地人(つまり日本人だ)から厚い待遇を受けていたことがわかる。
 全国的に見てすべてがそうだとは言い切れないが、多くの場合大陸から日本へと技術をもたらした渡来人たちは日本人から歓迎されていたようだ。

 しかし、ここでシンプルな疑問がふたつ浮かび上がる。
 まず、彼らはどのようにして現地人(弥生人、あるいは古墳時代飛鳥時代の日本人たち)とコミュニケーションをとったのか? 言葉は通じたのか、それとも通訳のような人がいたのか?

 それに対するMさんの答えは興味深かった。まず、その時代はまだ文字がないからはっきりとしたことはわからない。しかし当時の日本と大陸は、今ほど海によって隔たれてはいなかった。すこし海を渡れば行き来ができる、ほとんど地続きと言ってもいいような状態だった。したがって、たとえば九州と大陸は言語的に近いものを持っていた可能性が高い。近いものどころか、ほとんど同じ言語を持っていた可能性すらある。
 逆に九州から見て大陸よりも遠い北陸地方では、同じ日本でも言葉が異なっていてもなんら不思議ではない。つまりその時代の日本各地でどのような言葉が話されていたのか、日本人と渡来人たちとがどんな風にコミュニケーションを取っていたのかは、さまざまな発掘調査とその状況から推察するしかないのだ。

 これより後の時代になると文献が残されるようになるので、文献を見てその人物名や地名を照合していくという楽しみがある。逆に文字のない古墳時代以前の時代は、そうやって想像する楽しみがある…。ぼくのこれまでの経験だと、古墳時代が好きな人はそこの部分にロマンを見出していることが多いようだ。ぼくもそのうちのひとりということになる。

 渡来人についてのもうひとつの疑問は(どちらかというと、ぼくはこれがずっとこれが気になっていたのだ)、どうして渡来人たちはわざわざ日本のような辺境までやって来て技術を伝播したのだろう、ということだ。生まれ育った大陸を捨ててまで日本に来るメリットとは、いったい何だったのか?

 それに対するMさんの答えはこうだ。
 当時の大陸はちょうど三国時代のあたり。群雄割拠で争いが絶えなかったので、技術を持った職人たちはいわば亡命のようなかたちで日本にやってきた可能性がある。それに加えて、日本に来て技術を伝播するとなったら現地人は優遇してくれるという目算もあっただろう。いろいろ事情はあっただろうけれど、それだけでも来るメリットとしては十分だったのではないか。
 なるほどな〜、と感心してしまった。当時の渡来人と日本人がどのようなコミュニケーションをしていたのか。日本人はどのようにして彼らを受け入れ、彼らは日本に融和していったのか。考えるだけでもわくわくしてくる。相当なドラマがそこにはあったはずだ。

 とにかく、Mさんからはほかにも楽しい話をたくさん聞かせていただいた。聞くとMさんは小松市の方だが、中学生の頃には近隣の遺跡や古墳を行ける限り自転車で巡っていたのだという。根っからの考古学少年だったわけだ。こういう人と友だちになって古代のことについて話し合えたらさぞかし楽しいだろうな、とぼくは心から思った。

 そのあと近くにある、Mさんオススメ遺跡の岩倉城址という山城に行ってみたのだが、害獣対策で山の周りに柵と鍵付きの門が設置されていたため登ることができなかった。諦めて、イオンモール新小松で買い物して帰ることにする。よく考えたら、ひとりでのんびりとイオンで買い物なんてしたことがなかったのだ。

Part7 平日のイオンモールと村上春樹のラジオ

 平日の昼間のイオンモールは空いていた。グローバルワークでランニング用のタンクトップと涼しげな短パン、かわいい北極くまのTシャツを買う。

 ぼくはたまにグローバルワークに行くが(グローバルワークはなんと、福井にもあるのだ)、ここの店員とは話していてもいやな感じがしないなといつも思う。もちろんみんな違う人だが、肩の力の抜けたゆるめの接客をしてくれるあたりに秘密があるのかもしれない。そういう教育をしているんだろうか、それともそういう人が集まる社風なんだろうか。なぞだ。

 そんな風にゆっくりと買い物をして閑散としたフードコートでロッテリアのハンバーガーを食べていたら、ふと次の小説(キネとミノシリーズのやつ)のアイディアが浮かんで来た。一旦家に帰って、それからスタバに行ってアイディアをまとめることにする。

 帰りの道中は激しい大雨に見舞われた。聞き逃していた村上春樹のラジオ番組をradikoで流したが、これがビートルズのカヴァー特集でかなり聞き応えのある内容だった。選曲はさすがにマニアックだったけれど、番組で流れたヒタ・リー(村上さんは英語読みでリタ・リーと言っていたが)の曲だけはぼくもCDで持っている。えへん。

 考えてみれば、村上さんのラジオもこれでもう6回目。
 だけど何度聞いても、ぼくにはそれが信じられないような気がする。人生って、生きることってなんて不思議なんだろう。村上さんの声を聞く度に、ぼくはそう思わずにはいられない。ちゃんとこの世界は動きつづけ、日々は更新されているのだな。そんな奇妙な実感を抱く。

 村上さんのラジオを聞いていると、彼はきっと自分がDJをやるならこういう語り口で、こういう企画をやってこんな風に曲を流したい、と何十年も前から幾度となく想像し、その日が来るのを楽しみにしていたんだろうな、というのがじかに伝わってくるような気がする。ずっと考えていたことを、遠い将来にいつか実現できること。それはぼくが思うほど不可能なことではないのかもしれない。彼の声を聞いていると、すこしだけそう思えてくる。

 だけどそれはある場合には不可能ではないだけだし、可能になるとしても、そこに至るまでに困難がないわけではない。それを実現するためには、村上さんは70歳になるまで生きて、現役の作家としてサヴァイブしなければならなかった。それは明らかに超人的な仕事だ。彼の発言を辿って行くとわかるけれど、騎士団長殺しのような一人称小説をふたたび書いたことも、ラジオのことや、こんどのジャズライブにしても、いつかこういうことがしたいと常々発言していたことばかりだったりする。いつもやりたいことを持ち続け有言実行している村上さんはすごいなあ、と思う。

 彼は当たり前のようにラジオで話しているけれど、それはちっとも当たり前のことなんかではない。それはやはり驚きを持って迎えるべきものだ。でもそれは、当たり前のことを当たり前にやりつづけることでしかたどり着けないことなのかもしれない。自分のなかの当たり前を刷新しつづけること。それに運がよければ、ものごとは良い方に進んで行くはずだ。そう信じて。

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turistas
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