エネルギーが溜まれば 勝手に動き出す
不登校界隈でよく見聞きする
「エネルギーが溜まれば 自分から動き出す」
というのは本当だ。
(私が経験して感じた、というだけの話だが…)
不登校初期の、死にたいと言い 荒れに荒れ、不安で寝られない 食べられない 混乱した日々には、そんな言葉は何の救いにもならなかった。
でも、思い返してみたら 息子はどんなに病的な状態であっても、偏食で少食でも 自分で食べ物を食べていたし、自分でトイレにも行っていた。
マズローの5段階欲求説のとおり、まずは最低限の「生理的欲求」だけは自ら満たしていた。
それが保たれていたのは有難いこと。
なんとなく息子に言っていた「学校に行かなくても、朝起きる、ご飯食べる、ウンコする、夜寝るはやっていこう!!」という合言葉は、あながち間違ってはいなかったんだな。
(本当は、小学生で昼夜逆転生活になるのが怖かっただけなのだが…w)
学校という外界で不安になった息子は、時にカーテンを閉めきったり 下校時間にきこえてくる子どもの声を遮るために窓を閉めたり、家にひきこもり 安全を確保していた。
私が不安を煽る言葉を発すると、押し入れや風呂場に逃げ こもったり、椅子やソファでバリケードをはったりしていた。
親である私が 不安定な息子を完全に受け入れ、どんな息子も認め許し、安心安全な家で心身共にしっかり休み、好きなことに没頭することで 少しずつ穏やかになっていった。
マズローの5段階欲求説でいう「安全の欲求」が満たされると 次の「社会的欲求」に向かった。
時おり 幼児期に戻ったように私にべったり甘えていたのは、私の愛情をたしかめていたのだと思う。
求められたら存分に愛情を伝えてやった。
そして、絶対自分を傷つけないとわかっている同級生が家に遊びにきてくれたときは楽しく遊び、気の合うネッ友を見つけてオンラインゲームで遊んでいた。
同じく、絶対自分を傷つけないとわかっている大人(祖父母、叔父叔母、私の数少ない友だち、夫の職場の人たち等) との触れ合いを積み重ねた。
こうして子どもは充分に生きていけるのだ。
ただ、人間はやはり欲深いものなのか。
息子もまた、1年半ほどかけて安全と身近な愛情が安定してくると、更なる「社会的欲求」と 次なるの「承認欲求」を求めて、学校という集団へと動き出した。
もっと友だちと楽しく過ごしたいのだ。かっこよく見られたいのだ。理想の男になりたいのだ。
(正直、すっかり色々手放し 価値観の変化した私は、もう学校へ行かなくてもいい 学校へ行かなくも息子は充分に生きていける と心底思っているのだが…)
そんな親の気持ちとは関係なく、息子は自ら動いていく。うんうん、どこに動いてもいい。選択肢は無限だ。向いたほうが前だ。
理想が高く、不安が強く傷つきやすい、何度でも戻ってくるだろう。戻ってはまた外へ出ていく。休んではまた求めて動く。
大人になってからの私もそうだった。
みなそうなのだろうか。
人生ってそういうものなのだろうか。
マズローの5段階欲求説でいうならば、戦争・災害・貧困・虐待 などで 最低限の生理的欲求や安全の欲求が失われてしまっている人たちには、早急にサポートが必要だと理解できる。
今現在 苦しんでいる人たちの安全が満たされ、安心が安定しますように。