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価値観の変化から、もうすぐ1年

「価値観の変化」の兆し・・と言うのを思いかえす。
夢物語の様な出来事が起きて、そろそろ1年が経とうとしているからだ。

そんな言葉を聞いた事は無かったし自分で口にする事は自体、想像できなかった。
思い起こせば、年始からの記事や音声や作品の説明でもよく発するようになった【価値観の変化】あまり多用する自分に「そろそろ使い過ぎでは?」と思ったこともあったのだが、今の考え方や作品を説明するのに必要な言葉となっている。
それほどまでに衝撃的な出来事だった。

「価値観の変化」とは「考え方の変化」のような気がする。

人は自分の価値基準で物事を考えて行動すると思うのだ。
それが日々の生活になって、積み重なれば人生という人間としての一生になる。意識するとなかなか大きい出来事のように感じるが、日々の生活は当たり前のようにやってくる。
そして何事もないように考え選択を繰り返す。
朝起きる時間。
朝食は何を食べるか?着ていく洋服は?
窓から外を見て晴れていれば洗濯の事を考え、干して出るかどうかを考える。
その些細な行動が〈価値基準〉から選択した自分の行動。
朝早めに起きるのは仕事に余裕をもって行く為。
季節の変わり目に着る洋服で悩むのは、過去の体験がそうさせる。
晴れた日にどのぐらいの時間洗濯物を干すかどうか考えるのは、きっと過去に雨に降ら荒れて嫌な経験があったからだ。
一日、一時間、一分、一秒〈自分の価値基準〉判断して行動して生きている。
でもよく考えるとその〈判断基準〉に自分の経験ではなく、他者の意見や願望、契約上の義務が絡んでくることもある。友人との約束だったり、仕事というものになる。
自分の判断基準はどうなのか?
私は〈判断基準〉の一番上位が〈他者〉で最下位が〈自分〉にいつしかなってしまっていたらしい。
自分よりも【義務】や【役割】を最優先。
「人の為に行動する」「人に尽くす」「人の願いを断らない優しい人」
時に「真面目な人」とも言われたことがあるが良い記憶として残っていない。
良い方向に考えると〈良い人〉とういう好印象が出来上がるのだが、そこに自分の意思より他人の意思が優先されるので、個として意思の選択をした【成し遂げた喜びの経験】として残らなかったのではないだろうか?
昔の自分を振り返ると考えてしまうのです。
「安心した事が無い。満足感があまり記憶にない」
指示された仕事が終わっても心配になってしまう自分。
(必死でやったのにモヤモヤする)
自分の達成感より支持をした人の顔色を伺っていたので、判断基準が〈他者〉しかるに満足感が体感として残らない。
長年の生活環境と人間関係で作られる価値観とは?
「満足って何だろうな」
そんなことを思う日々もありました。

子供の頃の判断基準は〈自分〉であったはずなのに、自分を押しのけ〈他者〉の意見を優先するようになったのは・・何時からだろう。

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