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制作日記:変化が始まってから1年(制作サイド)
2013年からペン画で展示活動を始め、昨年の2013年10月後半から絵のイメージに「色」が付きはじめ、約一年。
年始から生活と制作の変化に戸惑い、不安を抱えたりストレスで寝込んだり色々あったが・・やっと今の自分に追いついた今日この頃。
【孤独感】の考え方も、数年前の自分とは明らかに違う視点に変化。
【抱える孤独ではなく、(独り)を感じる孤独へと】
最近、再び描き出した「木霊」で振り返り変化を記録する。
「価値観の変化」を生活面から振り返った今週のエッセイもよろしかったらご覧ください(絵とエッセイより2024年10月24日掲載)
「木霊」伝えるという制作と意識
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後に【虚無】として題名が変わる
はじめて「木霊」として題名を付けた作品。
後に作品名が【虚無】に変わるのは今になって当たり前の様な気がする。
「木霊」という言葉に翻訳を調べたら「kodama」と出てきた。
日本特有の言葉なのか考え方なのか?
西洋では【妖精】やゲームでは【ドライアド】といわれるものかもしれない。
〈モノには魂が宿る〉
幼いころから妖怪が好き。
妖怪とは不思議な事象に名前を付けたものが多い。
「分からないから、気を付ける為に畏怖する存在として名前を付ける」
ぬりかべ・泥田坊・カマイタチ・・水木しげる先生や京極夏彦先生の書籍を愛読。そして【付喪神】というモノもある事を知った。
長い間、愛用してきた器具などものには【神】や【魂】が宿るという考えだ。永く生きる猫は猫又になり恨みを持って亡くなった猫は化け猫になる。
「モノの存在には存在する訳がある」
「その姿に変じた形なりの理由がある」
「気持ちは形になる」
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当時の心象を写すようでこの風景からイメージが生まれる。
木々もよく見ると存在している場所ごとに根の張り方や枝の付き方が違う。お寺などにいる木は枝ぶりもよく堂々として、廃屋の木々は蛇の様にうねり建物を飲み込みそうで怖く感じたのを覚えている。
生存する環境によって生きる為に形を変える事は、木々として生きる為に必要な姿。
【モノの形には理由があり、その環境が反映される】
散策をして目に入る折れた木にこれまでの気持ちを照らし合わせてみた。
「今の自分にそっくりだ」
満たされない渇き、軋むような苦痛、果てのない虚無感。
「木霊」というものに込めたのは【自分の言葉】
孤独感や苦悩、悲観や虚無感を木に宿し吐露する日々。
「自分を伝えたい、分かってほしい」という欲求が形になった作品だと振り返る。
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「しかし、一方的な思いは届かない」
在宅介護の日々は、自分の至らなさや情けなさ、一心に向けた言葉自体が相手に届かず絶望感が多かった。
その人の事を考え、心配して伝えた気持ちが(その人に残らない)
病気であるのは分かっている。
けれども、悲しさは日に日に増幅して破裂する。
必死の言葉が届かなかった事実は、心を壊すのには十分だ。
「一方的な愛情は無意味だ、言葉は時に意味をなさない」
介護を終え掛けられる言葉も真摯に受け止める事が出来ない。
「よく頑張った」
その声さえ虚しく響く中で【言葉】自体に信用を無くしてしまい、伝える事自体が虚しくなってしまった。
「伝わらないのに、何を伝えるんだろうか」
そんな思いも抱えながら10年目を迎えた2023年の制作。
自分の思いを込めていた絵の制作が頓挫する。
「何も思い浮かばない」
イメージが浮かばない(絵が描けない)という出来事は、強く何かを伝えたいという熱意が失せた事を表していたと思う。
「浮かばないなら、もう絵は描けない」
辞める辞めないを繰り返し悩む日々。
(絵を描けなくなったら、自分には何もない)
自分の価値さえ疑いそうになる。
他の事を探そうと考えるも「何をやりたいかが分からない」
浮き沈みを繰り返し、迎えた【価値観の変化】
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273×160㎜
2024年の10月に制作したばかりの「木霊 life」
生命力を翻訳したら自分の思う意味と違ったので、考えて「life」にした。
言語は国ごと違うが、言葉の意味は個人ごと違う
それぞれの記憶と経験と感覚・感情から「言葉の意味」が印象付けられる。
「自分の言葉が伝わらなかった」という絶望感は自分が作った印象だ。
全ての人が自分の声を聞いて言葉を理解してくれる事は無い。
あるとすれば、「伝える意思と受取る意思」それが通じて会話と理解になるのだろう。
そんなことを実感した2023年のセッションであり、過去の虚しさを払拭できたリリ色彩心理講座。自分の過去のトラウマを理解して受け止められることは受け止めて、出来ない事であれば受け止められない事を理解する。
自分を改めて理解しようと認めた時にイメージに色が付きはじめた。
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当時を思い出して感覚を作品で表現を試みる
抱えてきた孤独感は存在したまま(モノトーン)
新しい生まれたての価値観(カラー・色彩)
孤独感を忘れるのではなく、新しい価値観で見直し理解を深めて伝える
「独り」を「感じ」絵で表現することで語る。
水彩画で描き始めた時はそんな気持ちを言語化して可視化できなかったが、エッセイや制作日記を執筆し理解を重ねる事で、新しい価値観に自分の意味を見出すことができたのではないのかと・・出来上がった新しい「木霊」を見て思います。
自分と向き合う事で「世界が変わる」その大切さを作品で伝えたい
Instagramのプロフィールに現在記載している文言だが、やっと理解が出来てきた気がする。
実感が湧いてきたと言えばよいのか・・
言葉のみが溢れる時代「意味」を理解できる前に〈記号としての言葉〉に
たどり着いてしまう事もあると思う。
言葉に意味を成すのは、伝えたい事の意味を深く考える事から始める。
イメージを絵で制作する時には浮かんだ事を忠実に描くように意識して、言葉にするときは浮かんできたイメージを色彩心理を参考に理解を深めエッセイなどで形にできるよう執筆する。
「言葉は無意味である」自分の伝える力に〈言葉〉に失望していた2023年を超えて、セッションという〈言葉〉に気付かされ、色彩と共に新たに〈伝える事〉を考え制作する今年の2024年。
「この気持ちの意味をどう伝えようか?」と、自分なりの方法を模索して制作する毎日です。
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そんなイメージで制作中の作品
エッセイを書く事についての覚書
エッセイを書きだしたのが9月半ば、10月24日で12本目になった。
「絵とエッセイ」というテーマで書き出したが、当初とは意味合いが少し変わってきた現在である。
【絵】を描いて【文】を書く
制作する上でどちらか一つに集中しなくてはいけないと思う事があった。
「器用でない性格」
「一本気なところがあるが飽きやすい」
続ける為には納得する作品を仕上げるにはそうしなくてはいけない・・
自分の事なのに誰かに強要されたかのように頑なな時があった。
思うに他人の目を知らずに気にしてしまっていたのだと思う。
他人の様子を察知しやすかったり、共感し過ぎてしまう事が多かったので、自然と自分の行動も【気にしてしまう】癖がついていたのだと振り返る。
気質的な事だとは分かっていても、知らずにそれが正しいと思ってしまっていたのかもしれない。
しかし、転機になったのはコロナ過での閉鎖的な期間で他人との交流を控えなくてはいけない時期だった。
絵を描いていたけれど、出展しても在廊は叶わない。
自分の絵を知ってほしいという思いの手段としてnoteを始めたのだ。
始まりは(作品の説明)の為の文章。
そして、在宅介護時の孤立感や抱えていた孤独感を吐露し、落ち着かせる場所から、詩画集という(制作物)としての役割へと変化した。
「制作してきた作品を集めて披露する手段」
それが、「絵から当時の自分を読み取って、今の考えで振り返る手段」になったのは、昨年の〈価値観の変化〉からだったと思われる。
とにかく〈自分自身が良く分からない〉
今まで避けてきた行動や決断が増えてきた変化後に「自分の気持ち」がついていけない戸惑いや不安があった。
頭の中での不安は理解するのは実感が湧かない。
なので〈言葉〉にして文章として制作して問題点を開示する。
「自身の気持ちを吐露するような制作をするならば、読み解けるのではないのだろうか?」
それがエッセイを企画するきっかけになった。
しかし、企画したとはいえ当時は文章があまり浮かばなくなっていた。
〈価値観の変化とは、今まで使っていた言葉自体の意味も変えてしまう〉
その事を痛感したのは「木霊」「倒木」「流木」現在取り組んでいる制作でである。ちなみに、この3つのテーマは逆に年始から描けなくなっているテーマだった。
自分の孤独感を投影して描く事で気持ちを封じ込めていた木々の作品。その事を理解できたのは2023年に制作した詩画集「孤独の樹海」
思えば「孤独な思い」が枝を生やし根を張って鬱蒼とした樹海。
同年に起きた〈考え方の変化〉で光が差したかのように、木々のテーマが浮かばなくなった。
「孤独感が晴れたからなのかな?」
しかし、素直に喜べず受け入れられない自分もいる。
(どうも・・腑に落ちない・・というか・・寂しい?)
「孤独感」であれ、物心ついてから抱えていたながく付き合ってきた感情である。木々と言えば色彩心理で自分が一番リラックスできる色であり場所だった。「考え方が変化したからさっぱり忘れられる」・・そんな訳にはいかないし納得できない。
物事には訳がある
孤独には理由があり
孤独を忘れられない事には「何かある」
理解するには、印象で表す〈絵〉が必要で、言語化する〈言葉〉が必要である。
「ああ・・厄介」と自分の性格を振り返る。
孤独が明けたなら忘れて生きればいいと思わずにはいられない。
しかし、自身が苦悩した数十年を〈苦しかった〉で終わらすには悩み過ぎた。「悩み続けた事は理解したい」そんな衝動が自分にはある。
「人生を後悔したくない」なので考え続け、制作を続け、言葉で記録し続けたい。
〈絵とエッセイ〉にはそんな気持ちが込められている。
自分の記録であり考えであり、表現手段である。
時に絵の制作でイメージが揺らいだ時にエッセイを書いて【言葉】を探し出しイメージにする事がある。
未だに上手く説明することが出来ずにもどかしいが、いろいろ悩んだ結果。
「絵と言葉」は必要な表現手段であり、順列をつけられない伝達方法である
この思いにたどり着いた。制作を進める上でさらに付け加える事が出てくるかもしれないが今はこの考えを大事にしたい。
「自分の感覚と向き合い、絵や詩や文章を制作している」
音声で冒頭に口にする文言だが、声に、言葉にする事で自分の伝えたいという思いを忘れないようにしている日々である。
絵とエッセイ
制作日記
詩画集
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