見出し画像

歴史 - 「日本と日本人への10の質問」

「歴史は繰り返す」といいますが、これは半分正しく、半分正しくない。同じ事象が繰り返すわけではない。ただし、人々のその事象への対応の仕方ならば繰り返す。

石油ショックとトイレット・ペーパーが、古代になるとエジプトでの政情不安とローマ市場での小麦の値の高騰、という具合に。繰り返すのは「不安に駆られた大衆」だったのですから。

出典:「日本と日本人への10の質問」 / 『文藝春秋(2007年7月号)』収録

さて「日本と日本人への10の質問」、前回の「中国と米国」から大分間が空いてしまいましたが、最後に控えますは「歴史」、塩野さんが一番伝えたいこと、そして考えさせたいことかな、と個人的には。

■ 歴史

歴史の研究は原因の研究

出典:『歴史とは何か(旧版)』

「歴史」、一応は大学で「歴史学」を学んだ身として端的に表現するのであれば、「とある一つの"事実"と、その"事実"に対する解析や議論の積み重ねの成果としての、様々な"真実"の集合体」といった感じでしょうか。

私個人としては、大学卒業前後からさして変わっていない考え方ですが、社会に出てそれなりの人生経験を積んだ今現在、何某かを付け加えるとすれば「その"事実"とは人の行為の積み重ねであり、"真実"とはその行為の真の動機(原因)に直結するもの」といった辺りになります。

歴史とは学ぶだけの対象ではない。知識を得るだけならば、歴史をあつかった書物を読めば済みます。そうではなくて歴史には、現代社会で直面する諸問題に判断を下す指針があるのです。

出典:「日本と日本人への10の質問」 / 『文藝春秋(2007年7月号)』収録

なんて考えると、塩野さんのこういった立ち位置は、理解と納得しかありません。「知識」を集約しただけでは人々の中で、社会の中で生きていく上ではさして役に立たない、これは何も「歴史学」に限った話ではないかと思います。

「外部」との交わりを拒絶して象牙の塔に篭っていたいとかであればまだしも、人々との交わっていく必要のある「社会」の中で「生きた学問」として活用していくためには、今現在への「社会的有用性」の模索もまた、必然の視座となるのではないでしょうか。

「歴史のif」を、頭の体操とでも考えればよい。「ifの活用」で想像力をもって歴史を考えることが、ひいては現代社会を考える上での指針になる

出典:「日本と日本人への10の質問」 / 『文藝春秋(2007年7月号)』収録

ちなみにン十年前、自分が史学科の学生だった時代は「歴史のif」はもちろんのこと、「歴史の物語性」も揶揄の対象でしかなかったのを覚えています。それはひとえに「事実」であることの証明ができないから、との話であったのかなと、振り返ってみれば。

もちろん『竜馬がゆく』や『燃えよ剣』、『ローマ人の物語』などでの描写が絶対的な「歴史的な事実」である、なんて言うつもりはないのですが、思考や仮説の入り口としての役割までも否定してしまうのも、それはそれで視野狭窄的すぎないかな、とも。

本来であれば「仮説」を立てる事自体が「考える」という行為であり、「学問」にも直結していくと思います。ところが仮説を立てるにも、完全に証明された事実しか扱えないとの流れが、自分の周りでは根強く残っていたのが印象に残っています(最近はどうなんでしょう?)。

それ故にか「史料」を証明するための方法論ばかりが先行し、自由に「考える」という視点は薄かったと感じています。まぁ、学部としてはそういった「考える」という行為はあくまでさわりで、大学院(マスター・ドクター)以降で本格的に、との設計だったのかもしれませんが。

ただ、その当時の大学院進学は(バブル直後の)氷河期時代の就職に対しての「モラトリアム」といった要素の方が強かったようにも見えるんですよねぇ(これまた最近はどうなんでしょう?)。

歴史に学ぶということは、知識の集積に力点を置くのではなく、人間の行為の原因を探ることのほうに、重点を置くべきです。

出典:「日本と日本人への10の質問」 / 『文藝春秋(2007年7月号)』収録

人は何故考えるのか、その回答に普遍的で明快な回答は出せません。ただ個人的には「大切な人たちと心地よく生きていくため」に考え続けていこうとは思っています。言葉にするとなんとも大仰ですが、普段通りにマイペースで在るように、といったところでしょうか。

ちなみに自分が大学にて「歴史」を専攻したのには、さして大層な理由はありません(両親からはそれこそ小馬鹿にされましたが)。ただ、過去の人々の想いや時代の流れを把握する事、また、事象の回帰性に興味があった、それは確かです。そういった「知識(情報)」を識ること、集めること、そのこと自体が楽しかったのかもしれません。

卒業直後、(氷河期時代での門戸の狭さもありましたが)それなりに主体的に、一見すると全く畑違いな「ICT業界」に飛び込んではみましたが、「情報」を扱うという観点で見れば、無意識のうちに何がしか通じるものを見出していたのかもしれません。

その後、いわゆるSEとしては15年弱、その後は教育寄りの仕事への興味と縁もあって大学の事務職員を10年弱、そして今は高齢者向けの生涯学習施設の運営管理に携わっています。この世代にしては転職は多い方と思いますが、快く受け入れてくれている家内には感謝しかありません(共働き、大事)。

なんのかんのと一巡りして、「史学科」を卒業したキャリアパスっぽくもなっていますが、とどのつまりは広義での「情報」を扱うことに興味があったのかなぁ、、と。よくよく思い返してみれば、第1志望はとある大学の法学部政治学科で政治史を学べるところでした、確か、、閑話休題。

一人の人間が一生涯で経験できることには限りがある。そして、現代は過剰なまでに情報が氾濫している。この現代で、必要な情報を見分けることは難しい。歴史という長い縦軸をもつことが、自分という器の容量を増やすことにつながる

出典:「日本と日本人への10の質問」 / 『文藝春秋(2007年7月号)』収録

どのようなものであれ、「情報」はただそこに置いてあるだけでは「知識(インフォメーション)」止まりでさして役には立ちませんが、「歴史」的手法で俯瞰することで、残された「情報」を集約し、整理し、「知恵(インテリジェンス)」として、自分の判断の糧としていくことができます。

そしてまた、表に出ている一つの「事実」とその裏に潜むいくばくかの「真実」を組み合わせることで、今現在の「行動」と「結果」を予測することにも活用していけるのではないでしょうか、これは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」といった形でも昇華されているよな、なんて風にも。

哲学が「思考」の意味での諸学の基礎ならば、歴史学は「知識」の意味での諸学の基礎と成り得る、「考える」という行為と「情報を知る」という行為、その両者をつなぐものの一つに「歴史という学問」がある。

「歴史」、私はこう、考えました。

というわけで、塩生さんからの「日本と日本人への10の質問」に対する今の私からの回答はこんな感じで、、今年の2月頭からですので、約11か月、なんとか年内に終わって一安心、といったところです。

note 自体いつまで続けられるのかは不透明ですが、また折々で考えていきたい事項でもあるかなぁ、なんて思いながら。

お付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。

回答を与えるなんて露ほども考えていない

出典:「日本と日本人への10の質問」 / 『文藝春秋(2007年7月号)』収録

いいなと思ったら応援しよう!