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ひとりエスケープ

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何も考えたくないときには電車に揺られて静かな場所に行くのがいいですね。
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Twitterで見かけた。よく言われる定番ネタだ。逃避行というらしい。
僕はといえば、「鬱病クネクネ抉らせてすぐに旅に出てしまうソムリエ」を自称していることもあり、こういうのには厳しい。

基本的に鬱鬱ピーポー期に入ってしまうと、誰にも自分を言われない、自分の思考だけに蹲っていたい。こういうポ(ココロ?感情?想い?どれもがソレを表すのに適切でない)が爆発して、「そうだ、旅に出よう」が始まる。
ここまではみんな理解が及ぶな。そんなの知らないわかんなーいとかいうような奴は今すぐこの記事を閉じて消えろ。いつか苦しくなったらここに戻ってふぉい。

ただ、ここが僕の怠惰でなくなっている可能性の方が高い。

話を戻す。これを「逃げ」、と定義し非難する者も一定数いるのだが、心の洗濯だなんだといって擁護されるような世論になりつつあるのが、現代のこの生きづらい社会である。別に擁護されたくてこんなことしてる訳じゃない。誠に腹が立つ。僕の自尊心と社会の乖離なんだよこれはぁ。ほらまた。話が逸れた。が、書き直すつもりはない。君の数秒無駄にしてしまった。いやそもそもこの記事を読…

本当にごめん。伝えたいことを端的に伝えない。こういうところが僕が社会不適合たる所以だ。面接で嫌な顔をされる訳である。
よし、結論から話す。
僕はソムリエとしてよく旅に出てしまっているが、その旅は大半が目的地(そんなもの本当はないのだが、これも後で書く)に着く前に、あほくさと我に帰り、行きがけの車内でふと終わってしまっているのである。
それには、この逃避行意思の裏に矮小な思惑が潜んでいるからに他ならないのだ。

このポ!による逃避行意思には、俺は間違っていない!という意固地な思い込みが行動化されたものである側面がある。同時に、感傷に浸ってニヒルになりたいという思惑も透けて見える、と僕は考えて、いる。
それらはとても自分勝手な、厨二的、とにかく矮小なものであることを分かってほしいが、そんなものをふっと、我に帰り、俯瞰してしまった時、自身のみじめさに苛立ち、居ても立っても居られない気持ちで日常に帰ろうとしてしまうのだ。

目的地の話もしよう。そもそもこういう逃避行には、目的地なんて決まっていてはいけないのだというのが自論だ。目的地が決まっている逃避行など、そこへ行って自分を慰める、ただの旅行だ。当てのない思考の旅に出るのが本領なら、そんなものはないはずなのである。だが、僕は悔しいが基本的に目的地が決まって、そういう旅行に出てしまっている。ソムリエ失格である。自称したことは忘れてくれ。
だから、僕はそんな「本当の」逃避行に憧れなんか抱いている。
本当に矮小な奴である。








また、旅に出たくなった。


PS
逃避行が題材になった作品で「ふたりエスケープ」という作品がおぬぬめだ。一迅社の百合は本当に良質である。ただ、僕はこれを逃避行とは認めていない。逃避行はどんな時においても「1人で」するものだからだ。
そんなこんなでこの日記のタイトルは決まった。

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