登山中毒になる理由:北アルプス縦走を終えて
2012年の夏の話です。
スペインの巡礼路で
こんなことを言われました。
「聖地サンティアゴに到着し、
それで完結したと思う人は
本当の意味での巡礼者ならず。
巡礼はイエスの精神を持ち帰り、
それを日々実践するところから始まる。」
自分はこれを体現できているかはさておき、
今月初旬、北アルプス縦走の最終盤で、
この言葉を思い出しました。
というのも、
標高が高い槍ヶ岳山頂直下や
尾根上では登山者の間で
雑談したりお互いを励ましたりします。
ソロ登山でもそこに交流(社会)があるのです。
ほかの登山者とすれ違う際には挨拶をします。
「こんにちは」
「ありがとうございます」
「お疲れ様です」
捻りのないシンプルなやりとりです。
これに加え、危険な鎖場、
道に迷いやすい箇所があったり、
もしくは珍しい野生動物がいたりするケースでは、
他の登山者にそれを伝えます。
今回の北アルプス縦走においても
こうした交流が活発にみられました。
しかし、下界の文明に近づけば近づくほど、
次第に挨拶に反応してくれる人が少なくなりました。
危険な岩場で感じられた仲間意識・一体感はなくなり、
関係性が無機質になっていくことを如実に感じました。
上高地まで降りたら、
そこに相互扶助も愛もなく、
表参道とさほど変わりません。
人間の表と裏、
つまり清く崇高な精神世界と
冷たく生臭い精神世界を行き来する。
人間が持つ二面性の宿命といいますか、
光と闇の対比をストレートに感じられる、
だから登山はやめられない。
そのように感じました。