25年前の中国を見て、今後の世の中を想像してみる
僕は1995年〜1997年で中国の天津と昆明に語学留学をしていたのですが、今がちょうど約25年後にあたり、その当時の中国がどのような感じだったか思い出してみたいと思います。
そして今後の世の中がどうなるか少し考察してみます。
まずは僕が留学していた当時の中国を紹介します。
(ちなみに中国でも上海と地方では大きく変わるので、そのあたりはご了承ください。)
1. ビールは大瓶で30円ほどでした
昔の留学友達と話す時はだいたい物価の話になります。
その中でも特に物価が安かったのは食事代です。
ビールは大瓶1本約30円で売られており、僕はルームメイトと24本をビールケースで購入し、毎晩部屋で1本ずつ飲みました。24本でも700円ほどと破格の金額です。
その他、晩御飯ではそれなりの量を食べて酒を飲んでも1食150円ほどと、20代前半の若者には天国ような価格でした。
写真:留学生寮の部屋
右の机の上に置いてあるのがビールです。
ビール瓶はライターで蓋を開けて、そのまま飲むのが中国スタイルでした。
左手前にある入れ物は路上で買った食べ物をいれたり、カップラーメンを作ったりと、こちらも定番のアイテムです。
2. 日本人で一番有名な人は三浦友和と山口百恵でした
僕が日本人だと知ると大体聞かれるのは「お前はサンプーを知っているか?」という質問です。
「サンプー」とは中国語で「三浦」のことで「三浦友和」のことです。
おそらく何かのドラマが流行っていて、三浦友和と山口百恵がとても有名でした。
あと、必ず「北国の春」を歌ってくれとも言われました。それだけ日本からの情報はあまりなかったということでしょう。
3. 日本人は人気者でした
言い方に語弊があるかもしれないですが、日本人だというとみんなとても友好的に話かけてきました。
外国人が少ないせいもあるのですが、反日感情のようなものは(表面上は)全くなく、みんなとても気さくに話してくれます。
長距離電車で話しかけられると、もうみんなに囲まれて、プチ人気者になります。ただ最後には「おれは気にしないが、俺のじいちゃんがお前をみたら殺されるよ。」という最後に締め括られることもよくありました。
写真:寝台列車
留学生にとっても飛行機代は高いので、だいたい列車で各地を移動していました。北京〜昆明で50時間ほどです。
寝台電車では、日本人だとわかると、ずっと質問攻めにあいます。
だいたいは「日本で働くと給料いくらだ?」と聞かれます。
写真:バスでの移動
こんなバスで1日くらい移動することもありました。
特に雲南地方の少数民族の村に行くには必須です。
若きときでないととこういう無茶なことはできないですね。
4. 外国人料金があった
万里の長城のような有名な観光名所は必ず外国人料金というのがありました。
さらに昔は外国人用貨幣もありました。
おそらく外貨獲得のためだったのだと思いますが、僕自体な見た目地味な人間は黙っていたら日本人とわからないので、だいたい中国人専用の入り口を使って安い値段で入っていました。
写真:万里の長城
中国人ツアーのバスに参加して中国人料金で観光していたのですが、ツアーの集合時間に遅れ、罰ゲームとしてバスの中で「北国の春」を歌いました。
写真:大学のサッカーチーム
僕は中国人のふりをして大学のサッカーチームに所属していました。
外国人は参加できないとのことで、審判にもし何か聞かれたら「ウィグル地方からきたジャンホイ」と名乗れと言われていました。
この写真でも僕がすっかり中国に染まっているのがわかると思います。
ちなみに韓国人とサッカーしたときに「おまえは前園だ」と言われました
さらにこの写真よくみると後方にかなり高いビルが建っていますね。
鄧小平の改革開放政策の影響がもう随分でている時代だったんですね。
5. 留学生は共産圏から来た人が多かった
これは今でもそうなのかもしれないですが、同じ共産国ということで、旧ソビエトからの人がそれなりにいました。
ロシアを筆頭にウズベキスタン、カザフスタン、キルギスタンなどの人がいました。
イスラム圏の人たちもおり、教室に入ったらいきなり礼拝していたり、彼らの料理をごちそうになったりとなかなか文化的にも面白い体験ができました。
ちなみに同じ共産圏の北朝鮮の留学生もいましたが、韓国人と隔てるために別校舎で授業をしていました。
写真:旧ソ連圏からきた留学生
旧ソ連系の国の知識はほとんどなかったのですが、留学生にたくさんいたおかげで、そのあたりの国のことがよくわかるようになりました。
今後の世界を考えてみる
ここでやっと少しだけの考察になりますが、まずは25年前の日本を考えてみたいと思います。
インターネットやスマートフォンなどのIT技術まわりはもちろん変わっていますが、生活自体はそれほど変わっていないと思います。僕の大学時代のアルバイトの時給は神戸で800〜1000円くらいで、お酒を飲んだり、旅行にいったりするスタイルもほぼ同じに見えます。むしろ今の学生のほうが質素になったかもしれないです。
かたや中国は大卒の月収が1万〜3万くらいだったところから一気に日本人と同等か、それを上回る金額がもらえる企業もでてきました。
そして日本人が珍しがられる時代も終わり、中国にいっても日本人というだけではなんの興味もひかれません。留学生仲間と上海に行った時は、中国人と仲良く話す雰囲気がひとつもなく、彼はとても落胆していました。
がんばって中国語で話してみても「お前は韓国人か?」と言われるだけで、25年前の新鮮コミュニケーションは全くもってなくなっています。
これで何がいいたいかというと、単純に「中国すごいな」というのではなく、今後25年後、もしかすると10年後くらいには中国以外の他の国も同じように経済成長する可能性があるということです。
今、東南アジアやインドが安いのでオフショアしようという考えがありますが、気づいたらあっという間に賃金が日本に追いついて、むしろ日本がオフショアの国の対象になることもあるでしょう。
雇っていると思っていた外国人従業員が母国に帰って会社を立ち上げ、将来的にはその会社に雇われるということも現実味があります。
こんか感じで、中国の成長を見ていると、日本にいながらにして自分の置かれている立場が刻々と変わっていくだろうと予想されます。
25年後に向けて何ができるか?
では、日本にいて僕が何ができるかというのを考えると、まずは「外国人と仲良くなる」ということだと思います。仲良くなるというのは友達になることでもあるのですが、ビジネスを通じて仕事を発注したり、受注したりすることです。
今は彼らを従業員として雇っているが、将来は彼らに雇ってもらうかもしれない。なので、上下の関係ではなく、対等な立場としての関係性を保つのがいいと思っています。
また、次にできることとしては海外、特にアジア、アフリカあたりに興味を向けて本を読んだり、オンラインで交流したりし、自分自身に刺激を与え続けることでしょう。
日本にいると生活自体が心地よいのでどうしても国内での生活の充実ばかり求めてしまいますが、意図して海外に目を向けるということを心がけています。
(そういう意味では海外に行きづらいこのコロナ禍状況下ではなかなか刺激を受けにくい環境ではあります。)
ということで、中国での25年前を考えると、現在の僕の「多国籍クリエイティブチーム作り」のアイデアにたどりつきます。
大学3年生にたまたま10万円をバイトで稼いだ結果が今もこのように自分の生き方に影響を与えているなんて、人生何が起こるかわからないですね。
おまけ写真
今回の写真は僕の実家が引越しすることになり、荷物整理ででてきたものなのですが、改めてみると、かなりの変化を感じますね。
日本での25年と中国での25年の変化はかなり違うのだなとよくわかりました。
写真:上海の南京東路
まだ歩行者天国になっておらず、地下鉄も1号線しか走っていませんでした。
写真:昆明の街中の様子
街中にはまだ人民服を来ている人も少しいました。
写真:市場の様子
こういった豚の頭ぶつ切りみたいな光景はコロナ以降減っていくんでしょうかね。