救いではないだろ(読書感想文:すみっコぐらし 飛び出す絵本とひみつのコ)
SNSで流行ってる映画と聞いて、余計な情報を入れずに見てきました。
あらすじなどもガッツリ書いているのでお気をつけください。
すみっコぐらしへの理解
すみっコは寒がりの"しろくま"とか、本当は恐竜の子供だけど騒ぎを恐れてトカゲのふりをしてる"とかげ"、脂身99%で肉が1%で食べられずに残された"とんかつ"とか、そういう世間のすみっコで暮らしている存在が、それぞれの距離感を保ちつつ仲良く暮らしている、そういう話である。
井ノ原快彦(イノッチ)が全部ナレーションで説明してくれる。かわいい。しろくまとねこが好きです。
劇場版のあらすじ
物語としては異世界(絵本の世界:飛び出す絵本)に飛ばされたすみっコたちが、その世界でゲストキャラクター(ひみつのコ)と出会い、冒険の末にすみっコ達とひみつのコは友情を育み、すみっコ達はやがて彼ら自身の世界に帰れそうになるも、ひみつのコは異世界からすみっコたちの世界には行くことはできず…別れ…悲しい…という話。
大人なら何回も見たことあるあの展開な。ひみつのコの精神年齢が若干すみっコたちよりも年少に描かれていることも補足したい。
結末~エンドロールで提示される救い
別れを経て、元の世界に帰ったすみっコ達は絵本の中で生きているたった一人のひみつのコに向けて贈り物をします。
それは絵本の中では同族の仲間が居ない、ひみつのコの傍らに仲間を描きこむこと。エンディングロールはひみつのコがどことなくすみっコたちの特徴を持った仲間と楽しく遊ぶ風景が描かれる。BEAUTIFUL HAPPY END…劇場では鼻をすする音さえ聞こえてくる…
ちょっと待て、嘘だ嘘だろお前
これ、感動のシーンじゃないですよこれ、ここで描かれて創られた"仲間"は決してひみつのコへの「救い」ではないですよ。
(すみっコたちが絵本に描きこむことで作り出した"仲間"は、すみっコ達自身が自分たちの世界に存在する以上、(後述の特徴の違いもあるため)オリジナルのすみっコとは異なる存在だと受け取っています。)
例えば、この"仲間"がすみっコたちの特徴を持たない、ひみつのコと同じ種族であれば、ここまでで驚きはしなかった。神様気取りのすみっコたちは絵本の中に新たな存在を作り、かつての友人の遊び相手としました。まあいい、わかる、許す。神々の戯れ。もう会えない友人への手向けですよ。いきなり神様気取りだけど、まあね、しょうがない。
だが違うんだなあ!彼らはオリジナルのすみっコ達の特徴を持ちつつも、ひみつのコと同族の"仲間"を絵本に書き込んだ。すみっコ達は幼いひみつのコが仲間である自分達が居なくなって寂しいだろうからと、自分たちの分身をひみつのコに与えたのよ?
たとえ話をさせてください
あなたの友人が「私はもう会えないけども、私の思考を完全にエミュレート(模造)できる生き物をあげるから悲しまないで」と友人と瓜二つの生き物を置いて去ったとして、あなたはその二体目と昨日までと同じ友情を結べますか?
すみっコ達の行動をひみつのコの視点で考えよう。彼は大冒険を通して手に入れた友人であるすみっコ達の面影を残すが、その友情の記憶は一切持っていない"仲間"をあてがわれたのである。
意思を持った"仲間"と新たな思い出は作れるにしても、最初の記憶として常にオリジナルのすみっコ達の記憶が重なる事だろう、やがて"仲間"もそのことに気づき…私はこれ以上ひみつのコと"仲間"たちのその後を考えたくはない。
だって私は○人目だから
わたしの知っているアニメだと、この行為は後ろめたさを感じる行為であったはずだ。だが、すみっコぐらしではその行為が平然と行われ、一切の後ろめたさは存在しない。繰り返すが劇場の他の席からは鼻をすする音さえ聞こえる、私が、私が異常なのか!?
善意から出た行為であって、すみっコ達の思い出としては美しいのだが、ひみつのコとしては悪夢ではないか。諸氏のご意見を伺いたいのでぜひとも見に行ってください。口コミで大人気の本作であるが、まったくのノーマークであったため上映館は少ないのですけど、何卒。
蛇足
隣の席の方が、映画始まる前の予告編で「橋本環奈が地味な普通の女子高生(役)な訳ねーだろ」とちょっと大きめの声でつぶやいてた、わかる。