第123回 満月もいつかは欠けてゆく
1、土くれに込められた誰かの想い
青森県南部町の聖寿寺館跡で中世の犬型土製品が出土した、という報道がありました。
犬型土製品は丁寧に成形され、地元で作られたものではなく、畿内で作られた可能性が高いということです。
江戸時代には安産祈願のお守りとして同様の製品が使われており、伊達政宗が築いた仙台城でも出土しています。
例えば戦国大名南部晴政に嫁いだ姫が実家から贈られた品なのでは、と妄想してました。
2、最果ての雄
南部氏は清和源氏の流れをくみ、前九年の役後三年の役で活躍した源義家の弟、義光の子孫です。甲斐国の武田家から別れ、鎌倉時代の終わりには奥州にきたのではないかと考えられています。
最盛期と言える南部晴政の時代は、この聖寿寺館を根拠として今の青森県全域から岩手県北部、秋田県の鹿角地方まで支配下に入れ
三日月の丸くなるまで南部領
意訳:三日月の晩に出発して、満月の夜になるまで歩いてもまだ南部の領地だ
と謳われたといいます。
聖寿寺館は天文八年(1539)家臣の反乱で焼失した後は居城が移り、その後開発されることもなく良好な状態で遺構が残されたということです。
町では平成26年からこの遺跡を整備するための調査として発掘を続けており、毎年話題性のある出土遺物が確認されています。
例えば、銅製の刀装具で南部氏の家紋である「向鶴」を表したものや、金箔が施された土器があります。
後者は全国的にも珍しく、中国地方の雄毛利氏の居城、吉田郡山城跡や九州の大友氏の館跡など数えるほどしか確認されていません。
みちのくの果てに大きな力を持った戦国武将がいたことはもっと知られてもいいのかもしれません。
3、伝えられることと伝わらないこと
南部氏の話をする時に避けて通れないのが、晴政と信直の関係。
実は盛岡藩の礎を築いた南部信直と晴政の間には確執があったという説があります。
晴政は当初、男子に恵まれず、従兄弟にあたる信直に娘を娶せて養子にしていました。
そしてあるあるですが、後から実子の晴継が生まれて、関係が微妙になるんですよね。
晴政が後の津軽藩主となる大浦為信の反乱に乗じて信直を亡き者にしようとしたとか、
晴政と晴継が暗殺されていた
とかきな臭い話が伝わっていますが
晴政以前の記録が盛岡藩にほとんど伝わっていないことは事実なので、信直側が都合の悪いことは隠滅した可能性もあります。
今後も発掘調査で新たな事実が明らかになっていくことを期待します。
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