第122回 宗教勢力の存在感
1、一向宗を考える
戦国時代の仏教勢力といえば、まず思い浮かぶのが「一向一揆」本願寺ですよね。
とある記事を読んで考えたことをまとめました。
まず一向宗の成り立ちから。
一向宗は浄土真宗本願寺派のことです。
浄土真宗は鎌倉新仏教の代表として教科書などでもお馴染みの親鸞さんが開祖です。
2、参考文献と極端な要約
余談ですが
五木寛之さんの小説『親鸞』が面白いのでおススメです。
面白すぎて史実と混同してしまうキライがあるので
伊藤益『親鸞』集英社新書
も合わせて読むとバランスが取れると思います。
大学生の頃教養科目で伊藤先生の授業を受けましたが、いかにも大学教授、というような個性的な先生だったことを思い出します。
話を本線に戻すと
親鸞さんの根本にある「他力本願」という思想は
普段慣用句的に使っている、誰かの力で成し遂げるという意味ではなくて
すでに御仏の尊い功徳で極楽往生はすでに決まっているので、「南無阿弥陀仏」と感謝を込めて唱えるだけで十分だ、自らの力でなんとかしようと考えるな、ということ。
すごくわかりやすく、広く受け入れられたので、次第に信徒を増やしていきました。
その中には国衆や国人と呼ばれる地域のボス的な武将たちも含まれます。彼らが信仰を紐帯にしてして組織化されたものが加賀の国で大名を追い出して「百姓の持ちたる国」と呼ばれたり
伊勢長島や石山本願寺に立て籠もって織田信長の包囲網の一角として活躍することになりました。
一宗教勢力が戦国大名のように影響力を持ったということが日本史上でも特筆すべきことだったのでしょう。
3、寺院に求められることの変遷
とはいえ、中世の仏教勢力は様々な面で大名ら支配者層に影響力を有していました。
学問の師であり、外交の使者であり、情報収集役であったりしたようです。
近世の初頭、安土桃山時代には、新たな領国の主人となった大名たちが、地域の人々にアピールするために、古寺の復興や、新たな寺院の建立に邁進しますが、これも宗教勢力の力が地域支配に効果的だったことを示していますよね。
それが明治になって廃仏毀釈を迎えます。よく仏像が廃棄されたり、僧侶が還俗させられたりという文化の破壊的なイメージが語られますが、本当のところはどうだったのでしょうか。
少なくともうちの町は、大名家の庇護がなくなって懐具合は寂しくなりますが、打ち壊されたりするような過激なことがあった記録はありません。
このあたりの地域差などを解説した書籍などご存知の方がいらっしゃったらご教授ください。
そして現在。
江戸時代からの檀家制度が、核家族化や少子化の影響で維持できなくなってきていますが、
逆に団塊の世代が参拝客として数多く訪れてきてくれているので差し迫った事態にはなっていないように見えます。
不謹慎ですが、高齢者が多くなれば、お坊さんたちが読経をあげる機会も多くなります。わが町も葬儀屋さんが増えて、いつも忙しそうです。
逆に言うと葬儀などの法事か観光でしか仏教と関わらない、と言えるかもしれません。
これからの寺院には何が求められていくのでしょうか。
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