第1454号 念願の踏査へ
1、山城から石造物へ
本日はお誘いを受けて山城の踏査に行ってきました。
縄張図という専門的な図面を書き上げてしまう専門家たちの見方を目の当たりにすることができて大変興味深いものでした。
一通り歩いた後でまだ図面作成に時間がかかる、という方がいらっしゃったので自由行動ということに。
私は地元の案内を買ってでてくれたフォロワーさんと石造物めぐりに。
事前にサラッと町史を読んで行ったものの、実際に足を運んでみて大いに学ぶところがあったので備忘録としてここに記しておきます。
鳴瀬町誌
矢本町史
2、いつのまにか夢中であるいてた
まず訪れたのは百合神社。
地元の厚い信仰を受けていることがうかがえるお社。
鳥居の手前に手水鉢があり、その裏には
湊田町 石工 髙橋長吉
とあります。
この湊というのは小野の川湊を指すのではないか、とご教授いただきました。
続いては根古八幡神社。
そもそもこの「根古」という地名自体が山城の麓の集落を指す「根小屋」を連想させる意味深な地名です。
こちらの参道はかなりの切り通し感があってとても風情があります。
入り口には弘安九年銘の板碑。
社殿の前には町指定文化財にもなっていたモミの巨木もあったそうですが、残念ながら樹勢が衰え、伐採されてしまったとのこと。
続いては集落の墓地にある板碑を見に。
よく古い共同墓地に付属している集会施設がありますが、こちらのものはなかなか年季が入っていい味を出しています。
もう少ししたら登録文化財にでもできそうです。
お目当ての文永の板碑は近世の庚申塔と別の板碑に挟まれてぱっとみどれが指定物件なのかわからない謎の位置関係。
それはさせておき曼荼羅の一部がのぞく種子ときっちり罫線げ区切られた銘文が特徴的です。
こちらには古くは松岩寺という寺院があり、『鳴瀬町誌』(昭和60年)掲載の「深谷風土記」によれば
文永元年開山、天正五年に小野本郷の功岳寺の天室和尚が中興したとされています。
古くは真言宗で、境内に経壇もあったとされています。
これはもしかして経塚なのでしょうか。
ぱっとみただけでは見つけられませんでした。
これだけでも相当お腹いっぱいになる情報量ですが、まだまだ続きます。
先ほども出てきた功学寺。
現在でも威勢を感じる寺院です。
石造物も盛りだくさんで紹介しきれませんが
町指定の三界万霊供養塔は天保の飢饉に際して
どれだけ物価が上昇したのかを記録する、という非常に珍しいものとなっています。
さらには伊達騒動で罪を被った伊東重綱と重義がこのお寺に葬られていました。
伊東氏はもともと現在の福島県安積郡の出身で、松島に領地を拝領した郡山氏とも縁戚ですのでゆかりがあります。
そして古くはないですが、立派な鐘撞堂に埋甕があったのが気になります。
やっぱり反響効果なのでしょうか。能舞台の床下などにはよくありますよね。
そして最後は新山神社。
前を通る度に年中飾られている茅の輪が気になっていた場所です。
こちらにも鎌倉権五郎景政というこの地の領主である長江氏の祖とされる人物をまつった碑や
フレームに収まりきらない大迫力の姥杉、
岩入山胎蔵院という修験の痕跡がある場所など
もりだくさんでした。
3、地域性の違い
2時間はかるく歩き回ったと思いますが、それでもまだまだ地域内の石造物をおおかた見る、ということはかないませんでした。
ぜひまたご指南いただいて、歩いてみたいですね。
そしてこのわずかな道行でも色々と考えさせられることは多くあります。
例えば中世以来の領主である長江氏に関連する石碑が豊富であること。
だれが領主だったかもはっきりしない我が町とはやはり異なる地域性です。
地域性といえば板碑もかなり違います。
近世の庚申塔や近代の馬頭観音などは情報収集が不充分なので
どう違うかまでは確認しきれませんでしたが
比較してみたい欲求が沸々と湧いてきます。
またじっくり歩いてみたいところです。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。