第63回 恩讐の彼方に

1、導入

地元の河北新報の記事

伊達成実(だてしげざね)所用の「黒漆五枚胴具足(くろうるしごまいどうぐそく)」が南相馬市博物館で展示

というものがありました。

何がすごいか、というと
伊達家と相馬家は長年にわたる宿敵だったからです。

実は同時に展示されている
「奥州相馬氏野馬追図屏風」
は18世紀に伊達家家臣が相馬藩の許可を得て制作したものとされており、

戦国時代の恩讐を越えた歴史にスポットが当てられています。

2、伊達家と相馬家の因縁

相馬氏は今の千葉県松戸市周辺にあった相馬御厨が発祥の地でした。

源頼朝の平泉攻めに従い、恩賞として行方郡(今の南相馬市)を所領とします。

戦国時代になると、相馬盛胤は伊達政宗の父輝宗や義父にあたる田村清顕らと抗争を繰り返し、一進一退を繰り返します。

最終的には伊達政宗に従うくらいならと自害を決意しますが、それを聞いた領民たちまで共に死ぬという誓約書を作ったとされます。

しかし、時は元和偃武(げんなえんぶ)。豊臣秀吉の小田原征伐に政宗が参陣したため、窮地を脱したのです。

盛胤の跡を継いだ義胤は80歳を超えて臨終を迎えようとするとき、遺言で

甲冑を着せ、北の方角を向いて埋葬することを命じたといいます。

もちろん北は伊達領。

少なくとも当事者同士が生きていた時には緊張関係は続いていたのでしょう。

そこからどのような経緯で野馬追いの絵を描くことを許すまで関係が修復したのでしょう。

3、地域のアイデンティティはどこに

江戸時代のお殿様はどうしても郷土のアイデンティティになってしまうもので、

殿様同士が犬猿の仲だと領民たちにもそれが伝染してしまうのでしょうか。

南部と津軽も戦国時代以来仲が悪かったようで、それが戊辰戦争の時に津軽藩だけが列藩同盟から離脱したところにも繋がっているという話もあります。

会津の人々は戊辰戦争で長州(いまの山口県)にされた仕打ちをよく思っておりません。

現代では私が記憶しているだけでも何度も「交流を図って関係修復を!」というニュースが流れていますが、話題になるということはそれだけ根に持っているということなのでしょう。

地元に近い東北の話ばかりになってしまいましたが、ほかの地域ではどうなのでしょうか。

またどの時代に地域のアイデンティティを感じるか、ということも地域によって違うのでしょうか。

昔山口市の文化財担当者の方に話を聞いたら

長州藩や毛利家よりも、毛利元就に滅ぼされた大内氏の方が地元に人気がある。

とおっしゃっていました。

言ってしまえば東北は坂上田村麻呂から、頼朝の平泉攻め、秀吉の奥州仕置、戊辰戦争と何度も侵略されていますが、

坂上田村麻呂が建立したという由緒を誇る寺院は数多いですし、鎌倉に対して、源義経の呪詛に協力したからと恩賞をねだっていた寺院もありました。

時の権力者の変遷に翻弄されつつもたくましく生きていた姿がうかがえます。

単に戊辰戦争が直近の時代、まだ150年しか経っていないので生々しいだけで時が解決してくれるのでしょうか。

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